【後編】いまだに気持ちがざわつく!? 娘が振り返る母との関係。
撮影・岩本慶三 文・黒澤 彩
孫が一番とはかぎらない?娘と孫を比べる母。
しまお 実は、1人目の子どもが男の子でほっとしているんです。今の女の子って幼稚園生くらいでもすごく女っぽいでしょう? もし自分の娘がそうだったらイライラしちゃって、母が私にしたみたいに髪をパッツンって切っちゃうかも。自分の趣味を子どもに押し付けないようにしたいけど、それって案外難しいかもしれませんね。
高橋 親の多くが、自分がかつて我慢したことをわが子が我慢しないと、イライラするんですね。娘に対しては自分を重ねやすいので、余計にそう。
しまお たしかに、父とだったら、適度な距離感でやっていけてるんですけど、母とはヒリヒリするようなところまでぶつかり合ってしまいます。私の子育てについても、つい何か言いたくなるようで最初の1年くらいは一触即発みたいな空気がありました。「まほはこうだった」とか、息子を私と比べるんですよ。孫ができたら溺愛するものだと言われるけど、そう単純なものでもないみたい。
敵か味方か !? 父の微妙な立ち位置。
高橋 子どもは大人をモデリング(観察学習)して育つと言われますが、身近な大人といえば親ですよね。それで、母か父か、究極の選択をすることになる。母が強烈だと、父に共感する人が多いようです。
村山 わかります。私と父は母という災厄から身を守るためのシェルターを分け合う同志でした。中学生のときに父と腕を組んで歩いていたら、母が「いやらしい、いやらしい」って言うんです。ライバル視されているんだとわかっていたから、わざと父と仲良くしたりしたこともありましたね。
しまお ひえー、すごい作戦!
村山 そして、父親は仕事に逃げますよね。兄も早くに実家を出ていたので、私と母だけが家に残される。
しまお 父は、私を自由に育てたと思っているらしいんですけど、実際はかなり「勉強しろ」と言われました。はっきりとは口にしなくても、私は大きな期待を背負っているんだと感じていました。「相手は誰でもいいから子どもを産め」とか、デリカシーのないことを言っていたのも父です。
高橋 リベラルなつもりでも、〝食いっぱぐれる〟ことへの不安が強いんですよね、親というものは。私自身がそうでしたから。言い返したいときは、「私の気持ちを考えたことある?」という言葉が有効ですよ。これを冷静に言われると、たいていの親は黙ります。
しまお 何を言ってもだいたい負けそうで……。わが家は母と父の結束が固いから、完全に私の分が悪い。子育てをめぐって言い合いになったとき、インターネットにこう書いてあったんだよ、なんて言おうものなら、二人して、「ネットは都市伝説だ!」って(笑)。まあ、ネットの情報にがんじがらめになってしまうよりは、親のやり方も取り入れたほうがおおらかに子育てできそうな気もするから、いいんですけどね。そもそも、人と喧嘩するのって苦手です。一人っ子だったせいもあると思うのですが、お二人はどうですか?
村山 今一緒に暮らしているパートナーとは、生まれて初めて喧嘩していますよ。喧嘩してもこの人とは終わらないっていう安心感があるから。彼は幼なじみで、私の母がどんなふうに怖いかというのをよく知っている人。『放蕩記』を書いたときに、母のことは一区切りつけられたと思っていましたが、彼に「そりゃあ、あのおばちゃんには言いたくても話せへんよなぁ」と共感してもらうと、改めて救済されたような心持ちになります。
しまお うらやましいです。私は夫とも思い切りやり合うことはなくて、ただ感じ悪くする程度。親に対しては高校生になって初めて、「親と喧嘩とかしてもいいんだ」と気づいたくらい、その発想もありませんでした。
誰が悪いかではなく、 今どうしたいかを考える。
高橋 私も怒られた記憶がないくらいだから、親と喧嘩なんてしてきませんでしたね。でも、そうやっていい子にしていたのも、自分の選択だったんだなあと今は思っています。
しまお 喧嘩できなかったのは自分のせいだったということ? そう考えるのはつらくありませんか?
高橋 いえ、自分のせいとかではなくて、その時々で、生きていくためにベストの選択だったということ。いい子でいるのはサバイバル術の一つです。ちなみに、もう一つのサバイバル術は、反抗しまくって親に手を焼かせること。しまおさんも村山さんも、ちゃんとサバイバルしてきたんですよね。自分が悪いと思ってしまうのは加害者思考で、親のせいにするのは被害者思考なのですが、実はそのどちらも無駄な考え方。誰が悪いかではなく、自分の気持ちに気づくことが大切です。まずは本人が、母親との関係をどうしたいか考える。深くわかり合いたいのか、少し距離を置きたいのか、それとも、もう関係を断ちたいのか。全員こうすべきという正しい答えなんてないんです。
村山 息子が父親を超えるのは通過儀礼として社会的に認められているけど、娘が母を切り捨てると悪い娘だと思われる。でも、自分が生きるために母を切り捨てるしかないのなら、仕方ないですよね。離れてみたら意外と関係がよくなることもあるかもしれない。
心の重荷を下ろして身軽に。自分が変われば、母も変わる。
高橋 今も、お母さんと会うことはありますか?
村山 施設に会いに行きます。周りの人にとてもよくしてもらっていて、それは私にはできなかったこと。施設に入居させている罪悪感はなく、母のためにもいい選択をしたと思います。母はもうすっかりボケてしまって、私のこともわからないみたい。真正面からぶつかる機会がないまま、うまいこと逃げられてしまった感じです。こうなったらもう優しくするしかないですよね。結局、母とわかり合うことはなかったけれど、さっき話したパートナーの言葉みたいに、なにか別のきっかけで自分の心が解放されることがあるんだと思いました。母を変えることはできなくても、自分は変われる。
しまお 私も母に変わってほしいとは思いません。私は自分のことや母との関係を客観的にわかっているから大丈夫、という気持ちがどこかにあって。でも、まだそこから先には進めていないんですけど。親との関係がうまくいっている人って、やっぱりちゃんと自立していますよね。
高橋 何をもって「うまくいっている」と言えるのかも曖昧なものです。うまくいっているつもりでも、いざ介護となったら親に触れなくてショックだった、なんていう人もいるんですよ。しまおさんは今、ご両親との関係に引っかかりながらも、そこそこやっていけているのなら問題ないんじゃないでしょうか。もし本当に行き詰まったときには、相手をあてにしないで自分が変わればいいんです。娘のほうが本当の感情を解放して身軽になると、なぜか母親も変わってきます。
「大好き」と言えなくても折り合いがつけば視界は良好!
村山 そういえば、1年くらい前、母がふっと私のことをわかった瞬間があったんです。私の手をなでながら「きれいな手やなぁ、お母ちゃんなんて、もうシワシワや」って。そのとき、どうして子どものときにこういうふうにしてくれなかったんだろうと、涙を必死にこらえました。素直に泣けばいいのに、私も、この期に及んで意地になっていたんですよね。まだ、母を「大好き」とまでは言えないけど、すごく恩義は感じているんです。母の抑圧がなければ私は作家になっていませんでしたし。
高橋 大好きにならなくてもいいんです。今のお母さんは、村山さんをライバルとは思っていないのでしょうね。ボケてしまっているとはいえ、以前は言えなかった言葉が出るくらい解放されてきたのかもしれません。
村山 親子だからってお互いに愛せるとは限らないし、そうじゃなきゃいけないっていうこともないですよね。社会生活と同じように、そこそこの付き合いができていればいいんじゃないかなって。ただ、もっと愛してほしかったとは思わないけど、愛させてほしかった。お母さん大好きっていう気持ちを受け止めてくれたらよかったのに、という思いは今でもあります。
しまお 子どもができたら無条件で可愛いのかというと、想像とはちょっと違っていました。親と子はやっぱり別の人格。私が小学生になったとき、母は親子でベタベタするのが嫌だからと、もう手をつないでくれませんでしたが、私は母のそういうところが好きでした。母娘の情って、初めからあるものじゃなくて育むものなのかな。
高橋 母娘だって人と人。ずっと近くにいれば、関係がうまくいかないことも当然あるでしょう。そんなときは、無理せずに距離を置く。たとえば介護も、他人の手を借りたほうがいいと私は思います。お互い愛せなくても、大好きじゃなくても、なんとか折り合いをつけて生きてさえいければいいって思えば、少し気が楽になるはずです。
『クロワッサン』948号より
●高橋リエさん カウンセラー/子育ての壁にぶつかったことから心理療法を学びカウンセラーに。著書『お母さん、私を自由にして!』(飛鳥新社)。
●村山由佳さん 作家/母との葛藤を描いた自伝的小説『放蕩記』が話題に。最新刊は『La Vie en Rose ラヴィアンローズ』(共に集英社)。
●しまおまほさん 漫画家/写真家の両親と作家の祖父母を持つ。漫画のほか『マイ・リトル・世田谷』(SPACE SHOWERBOOKS)などのエッセイ集も。
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