『オートコレクト』エトガル・ケレット 著 広岡杏子 訳──三十三の穴に落ちるそのよろこびを
文・オカヤイヅミ
生活の傍に、読み途中の短編小説集があると、役にたつ。
毎日のルーティーンは途切れなく続いて飽きが来やすいし、丁寧な暮らしには体力が要る。「気分を切り替えて」って言われるけれどやりかたがわからない。毒にも薬にもならないショート動画を選んで見たり、気持ちに波がたたない程度のつまらないゲームを延々とやって、時間を間延びさせてみても、寝転がっているのは結局、体温でぬるくなったソファ。そういうときに、たとえばトイレとか浴槽とか、なるべく気を散らせるもののない場所で、一人になって読むのにおすすめなのがこの本だ。一編だけなら五分で読める。
イスラエル出身の作家、エトガル・ケレットによる三十三の短い小説から見えてくるのは、どれも、知っているようで知らない景色だ。
宇宙人や、並行世界や、タイムマシンに混じって出会い系アプリや、ロックダウンや、アイスキャンディーや家族や死のように見知ったものも多く出てくるけれど、「ガソリンスタンドのフムス屋のナプキンみたいな」(「ミツヴァ」)って、どんなものだか私は知らない。しかし、それが彼らにとっての「あるある」だとはわかる。知らないのに、知っている。さぞゴワゴワなんだろう。気軽なのに精緻な文体で描かれる世界はどれも、皮肉で悲しく、取り返しがつかないのにほの明るい。
目次から好きなタイトルを選んで読み始めると、今まで知らなかったその場所にすとん、と落とされる。短いものでは二ページ分しかない文章の、数行目からさらに底が抜けたり、横穴に転がり込んだり、穴の入り口と出口は繋がって、いつまでもぐるぐる回ったりする。情報量の多い映像と違って文字単体には情報が少ないから、数行前に一度成立した世界が、ほろほろと違うものへと変容していくのを味わうことができるのは小説の醍醐味だ。奇想や飛躍によって描かれているのは、しかし、どれも生生しい人間の話で、ページをめくると、いつの間にか、私は殴られた男の目線で世界を見上げ、テスラを乗り回す富豪になって走馬灯を眺める。
表題作の「オートコレクト」は、会社を経営する息子が、朝の六時五十五分に目を覚ます場面から始まる。玄関チャイムを鳴らして迎えに来るのは社員でもある父親で、二人は全く素直でない会話をする。家族との、甘えていて修正の利かない、ありふれた会話のあと、父親は事故死する。次の行では、息子はさっきと同じ日の同時刻に目覚める。そしてまた、いつものように会話はささくれ立ち、ほんの少しの違いだけが起こり、父親は、やっぱり死ぬ。それはまた、繰り返す。ああ、そういうもんだよな、と苦味を数度味わう。けれど、少しずつ、変わっている。結末ではそのことに私たちも気づく。
並行世界、この世の終わり、宇宙船、繰り返す時間から、また次へ。一人になって本を開き、決して優しいだけではない、いくつもの瞬間に落ちるのは、強烈な気分転換になる。本を閉じても、私はまたきっと別の穴に落ちることができる。
『クロワッサン』1154号より
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