『去年、本能寺で』円城 塔 著──明晰夢のごとき歴史解釈学的リアリズム小説
文・都留泰作
表題作を末尾に配した連作短編集。これは言葉の本来の意味で「歴史小説」または「歴史に関する小説」だ。
織田信長が怒りっぽい人物というのは「周知の」属性だが、表題作「去年、本能寺で」でもずっと怒っている。しかし何にか? 彼がメディアの中で「両性具有」にさせられたり「タイムスリップした高校生」にさせられたり、果ては内閣総理大臣や異世界に転生させられたり、自分でも何をしているのかわからなく「させられている」運命に対して、だ。
たとえば大河ドラマでは幾度の桶狭間や本能寺がリピートされただろうか。「今回の信長」は誰がどう演じるのか、皆が関心を寄せる。しかし視聴者はそのどれもが信長だと自然に受け止めているのが奇妙と言えば奇妙な事態だ。
織田信長という人が存在したのは確かだ。しかしその記録は不完全であり、江戸時代以降、幾多の解釈やフィクションが積み重なり、ついには現代のタイムスリップものすら包含する、ヒロイックに複合した信長像が私達の前に立ち現れる。一方で、歴史家も身勝手な攻撃をかけてくる。いわく、信長の楽市楽座はどの大名もフツーにやっていた? 長篠の戦いの三段撃ちも後世の創作?
歴史ファン的には、じゃあ「本物の信長はどこにいる?」みたいな話に俄然なってくるわけだが、円城塔の作家的想像力はここで奇妙な転倒をして見せる。歴史上の人物とは、後世の勝手な解釈の中で翻弄される哀れな存在たちのように見えてこないか? しかし、変貌しながらも、どの信長も不思議にヒロイックであり、どこかで「信長」であり続けようとする強烈な「意思」があるようにも感じる。この作品の信長は、度重なる現実改変の打撃に耐えて、どんな解釈における人生も雄々しく受け入れ、解釈の彼方の謎空間に向けて、明智光秀を伴い進撃するのだ。
この奇妙な解釈空間を生き抜こうとする歴史上の人物たちは、どこかでやはり、斎藤道三は斎藤道三だし(「三人道三」)、細川幽斎は細川幽斎なのだ(「幽斎闕疑抄」)。辺境の蛮族蝦夷を討つ田村麻呂将軍は、ガリアを征服して、返す刀でローマを手中にしたユリウス・シーザーやオセローと重なり合い(「タムラマロ・ザ・ブラック」)、原始時代の化石骨の痕跡を殺人事件のように「推理する」現代人の目差しを引き受けて、新石器時代の「探偵」が、ホモ・ハイデルベルゲンシスの殺人の謎を解く(「存在しなかった旧人類の記録」)。
若き日の本居宣長が架空の一族や都市を緻密に構築した「端原氏系図及城下絵図」を、宣長自身が生き直す(「宣長の仮想都市」)。異様でありつつも、我々が見知った世界。そんな明晰夢を見ているような世界に連れ出してくれる作品集だ。南蛮貿易と奴隷制(「天使とゼス王」)、親鸞が義絶した息子・善鸞(「偶像」)など、知られざる歴史の一断片を、歴史イメージのみならず、アイドル文化など現代の日常イメージの重ね合わせ技法も用いて、「歴史解釈学的リアリズム」ともいえる光の中に浮かび上がらせる、真面目な教養性も魅力だ。
『クロワッサン』1153号より
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