『たのしい保育園』著者 滝口悠生さんインタビュー ──「育児の日々を書いて捉え直した小説です」
撮影・石渡 朋 文・鳥澤 光
2歳のももちゃんを抱っこした父が保育園へ向かう。〈娘は父親の腹を踏みつけ踏みつけ壁を登るように父親の胸まであがって足を突っ張り、父親はその娘のお尻のあたりに両腕を伸ばして支えつつ上体をやや後ろに反らすと、そこでなにかがしっくりきたのか娘がぴたっと暴れるのをやめて、静止した父娘は組体操の技を決めたみたいになった〉。泣き声を挟みながら続く、微笑ましい格闘の光景を目撃したかのように心が賑わう、ある日の登園風景を描く「緑色」。幼い子どもの体温も、重みも軽みも涙のしょっぱさも鮮やかに書き付けられた「恐竜」「ロッテの高沢」「音楽」「連絡」「名前」の5編が連なる、滝口悠生さんにとって初めての「父」小説が完成した。
「保育園について書こうとまずとりかかったのが『ロッテの高沢』という本作の軸になる短編です」
63歳で保育士に転身した元プロ野球選手について、ももちゃんの父と保育士のゆみさんが話す場面から、子どもの身体が語られ、成長を目にする感動と喜びと寂しさが共有され、大人の時間にも考えが巡っていく。父、娘、母、保育士や保護者などの間で視点が受け渡されながら進む短編の連なりが時間の流れに自由を与え、読者にも思いや思い出を取り出させる。
「小説の言葉のなかに、思い出す過程とその作業の痕跡が残っているからでしょうか。経験したことがないことだって仮想的に思い出せてしまうのは、まさに小説を読む楽しみのひとつですよね」
育児の普遍性を描きながら、小説という形式と表現に挑む
滝口さんは、三人称小説のただなかに複数の視点を置き、語らせ、“書く”と“書かれる”の関係を考え続けている作家だ。
「視点や人称が移ろっていくのは、僕は自然なことだと思っています。映像で操作的にカメラを切り替えるのとは違い、語り手が“あそこに誰々がいる”と書くときには、仮想的にであれ見つけられた側の視点まで想像している。小説でなくても、この人こんな表情をしているけど実はこう思っているんじゃないかな、と、知り得ないはずの他者の内面について考えることってありますよね。その瞬間、わずかであっても想像する人は想像される側の人に成り代わっていると言えるんじゃないか。日記や保育園の連絡帳にしても、現在の自分が過去の自分に成り代わって書くわけで、書き、書かれ、語られるときには、必ずこういった構造が生じるのだと思います」
幼い子どもたちが発する“小説の言葉”も興味深い。
「〈恐竜がいないなんて嘘はあまりにその場しのぎの詭弁(きべん)である、とふいちゃんは思っていた〉という一文に顕著ですが、この作品では子どもが知らないはずの語彙も使っています。子どもの言葉の愛らしさや瞬間的な面白さを切り取るのではなく、事後的に捉え直して書く。そうすることで、小説における話者とは一体誰か、と考えるためのフックを作りたいんです」
『クロワッサン』1145号より
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