子どもの独立を機に小さな家に転居。料理研究家・藤野嘉子さんが「捨てる」ことで手に入れた豊かな人生。
その秘訣を聞きました。
撮影・三東サイ 文・斎藤理子
生活を小さくしたら、 新しくて心地よい家族になりました。
料理研究家として40年以上、第一線で活躍している藤野嘉子さん。
フレンチレストランのオーナーシェフである夫の賢治さん、3人の子どもたちと、25年間、東京西部にある150平方メートルという広々としたマンションに暮らしてきた。ところが、嘉子さんが59歳の時に、住み慣れたその家を手放し、65平方メートルの賃貸マンションに転居をすることになる。
「年齢に合った暮らし方をしようという夫の提案が始まりでした。きっかけは東日本大震災。その時、夫は60歳。震災で客足が少し遠のいたのを機に、年齢のことも考えて、レストランを閉める決断をしたんです」
レストランを閉店し、南青山にプライベートダイニングを構えた賢治さん。と同時に、子どもたちが独立。2人暮らしには広すぎる家を売却し、半分以下のサイズの賃貸に移ったらどうだろうと、嘉子さんに相談した。
「もちろんすぐには受け入れられませんでした。一番抵抗があったのは、子どもたちの実家がなくなってしまうということ。思い出やよりどころを失ってしまうような気がして。大切にしてきたものを捨てるのも本当に嫌でした。それでも、今の私たちに合った暮らしをしようという夫の言葉に説得されて。納得すると、私、決断は早いんです」
固定資産税や管理費、ローン、駐車場代など将来的にかかるさまざまな経費を、実際の数字を上げながら冷静に説明する賢治さん。老いてから家を売ることや引っ越しすることを考えると、元気なうちに決断し実行したほうがいいと、嘉子さんは納得する。
見知らぬ土地の小さな家に転居。そして新しいスタジオをオープン。
「意外にも、子どもたちも後押ししてくれて決断したけれど、それからが大変。なにしろサイズが半分以下の家に越すわけですから、ほとんどのものは処分です。これは捨てたくない、でも捨てなきゃ、の堂々巡り。
結局、全部捨てる!みたいな勢いで大部分処分してしまったけど、今になるとあれはとっておけばよかったなと思うものもあり、もう少し冷静に仕分けすべきだったかとちょっと後悔することもあります。でもモノを捨てられないタイプなので、小さな家に移るというきっかけがなかったら、今もモノに埋もれて暮らしていたと思います」
そうして、藤野さん夫婦が選んだ移転先は、東京の東エリアにあるURの賃貸マンション。土地勘のない地域への移転は不安だったけれど、住み始めてみると、そんな心配はすぐになくなったという。住みやすくて便利、交通の便もいい下町が、今ではすっかりお気に入りだ。そしてまた、嘉子さんに大きな変化が訪れる。
「夫のプライベートダイニングや私の料理教室などに使っていた南青山のマンション。それも移転したいと夫が提案してきたんです。撮影にも打ち合わせにもすごく便利な場所だし、私はこのままでいいじゃないと思っていたのですが。マンションの一室なので、不特定多数の人が出入りすることが、大家さんとの間で問題になっていたんですね。それでまた物件探しです」
南青山は、ロケーションはいいけれど、マンションなので、外からの人はインターフォンを押さないと入って来られない。それだと物販は難しいので、新しいスタジオは1階にある物件が条件。住んでみて居心地のよさを発見した、東京の東エリアを中心に探して出合ったのが現在の場所だ。
同じスペースで親子3人が、それぞれの仕事を自由にこなす。
「スタジオの名前は“カストール”。夫が40年以上続けてきたフレンチレストランの名前です。エントランスには、小さなコーヒーショップ『カストール・スタンド』を作りました。これは、フランスでパティシエの修業をした次女の貴子の希望。彼女が作る焼き菓子やクロワッサン、とびきり美味しいコーヒーなどを販売しています。私のカレーもテイクアウトできますよ」
ここは、親子3人の共有の場。賢治さんの料理教室、嘉子さんの料理教室、貴子さんのお菓子教室が開催される。加えて賢治さんはここでお節料理を仕込んだり、3〜5月限定でアスパラガスを食べる会を開いたり。
嘉子さんは、味噌作りの会やベーコンを作る会を主催する。貴子さんは毎日美味しい焼き菓子を焼き、念願だった路面店でそれを販売する。
この空間で、それぞれがそれぞれの仕事を自分のペースで自由にこなす。藤野家にとっては、今まで経験したことのない、まったく新しいスタイルが生まれたのだ。
「3人だと前に進むのはすごく難しいし、夫婦と親子なので口喧嘩もしょっちゅう。でも、もめてばかりいたら仕事がなくなる危機感は、3人とも常に持っているので、うまくいっているんだと思います」
カストール・スタンドはキャッシュレスだが、これは貴子さんの意見を取り入れたものだ。将来的に若い世代にたくさん来てもらうためには何が必要か、ビジネスのことになると、親子といえどもきちんと話し合い、冷静に判断する。
「普段は同じスペースの中でバラバラなことをやっているけど、カストール・スタンドで売る商品は3人の共同作業。そんな感じのバランスが、今とても心地いいんです」
『クロワッサン』1083号より