『パリの「赤いバラ」といわれた女』著者、遠藤突無也さんインタビュー。「ここまで活躍した日本女性を知ってほしくて」
撮影・黒川ひろみ(本) 中村ナリコ(著者)
今年6月、44年間所在不明であった日本画家・鏑木清方(かぶらききよかた)の代表作『築地明石町』が発見されて話題を呼んだ。「日本のモナリザ」と言われるこの絵のモデルとされるのは東京の写真館の女主人であった江木万世(ませ)(ませ子)。その娘・妙子は中勘助(なかかんすけ)の小説にも登場する美少女で、大正の女性解放運動に傾倒したモダンガールであった。妙子は結婚後、経済学者の夫の公費留学に従い渡仏し、パリで娘・洋子を産み、その2年後に帰国した。
洋子は1950年、敗戦のダメージが深く残る日本から、カトリックの奨学金を得てフランスに渡る。22歳のときである。ソルボンヌ大学で哲学を学ぶ傍ら、生活費補填のため、キャバレー「クレイジー・ホース」で踊り子をした。やがて、『天井桟敷の人々』のマルセル・カルネ監督に見出され、’54年、映画に出演する機会を得る。それが、現在ではほとんど知られていない日本人初の国際女優・谷洋子の誕生だ。岸惠子が『忘れえぬ慕情』でフランスの銀幕を飾る、3年前のことになる。
この本は、自身も日仏で活動をするアーティスト・遠藤突無也さんが彼女の人生をまとめたものだ。洋子は生涯、12カ国、およそ40本の映画に出演した。本著には、彼女とアラン・ドロンやアンソニー・クイン、ダーク・ボガードなど錚々たる名優との関わりも記されている。
遠藤さんには日本とフランスの映画界の関わりをまとめた、『日仏映画往来』という著作がある。
「その本を書くために洋子のことを調べたのです。名前だけは知っていましたが、こんなに活躍したと初めて知った。彼女についての資料はほとんどなく、今きちんと書いて残しておかないといけない」
フランスにも出向き縁の人々に会い、およそ3年をかけて生涯を追った。作中の洋子への視点や驚嘆には自身のキャリアが生きている。
同じパリの舞台に立った経験があるからわかること。
「あの時代に、なんのつてもなくパリのショービジネスに飛び込んだ日本人女性が、どういう扱いを受けたか、僕には想像がつきます。差別もあったでしょう。それを逆手に取って自身の役割(ロール)を理解し、魅力に変えた彼女の頭のよさ、生半可でない覚悟は驚くばかり」
洋子は人気俳優と結婚したが、立場が逆転し、離婚に至る。その後も元夫の生活を援助し続けた。
「彼女の魅力はそういう“男前”であること、きっぷのよさ、情の厚さ。江戸っ子なんですよね」
のちにフランスの実業家のパートナーとなり、その美貌と芸能界の人脈で彼のビジネスに大きく貢献する。彼の没後、自らも死期を悟った洋子が約800万円をかけて歯を治療した話も興味深い。
〈死んで(彼に)会うときでも、綺麗でいたいということだった〉
「彼女は女優としてだけでなく女としても、自分の役割を知っていた。自分の美が愛する人に役立つことを知っていたんです。実に生き方のプロ、見事な女なのですよ」
『クロワッサン』1010号より
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