くらし

【山田康弘さん×譽田亜紀子さん 対談】縄文という時代【2】

  • 撮影・柳原久子 文・一澤ひらり

生命の大きな循環の中に生きていますよね。(譽田さん)

「土偶は2万点ほど発見されていますが、素朴なものから前衛的なものまで造形はさまざまです。ぜひ実物を見てほしいですね」(譽田さん)

縄文人はヒスイや貝輪など、地域のブランド物を作っています

山田 可能性はあるかもしれないけど、真偽のほどはわからないですね。ただ縄文人はたくさんのブランド物を作っているんです。富山県の境A遺跡のヒスイの頭はとがっていて、それが境Aで作られた証拠となり、見ただけですぐわかる。そのようにして、ブランド化していったことは推測できます。また、宮城県の里浜貝塚で作られた貝輪が、全て内径8cmくらいに統一されているのもブランド化の一例でしょう。

譽田 規格があるのは立派な交易品ですよね。自分のところの製品を他所に売り込むこともあったのでしょうか。

山田 縄文時代は交易をするだけでなく、人的資源も交換してネットワークを作り上げていきます。その中で黒曜石とか、ヒスイ、貝輪などが入手できるようになっていく。後期になってある程度人口も増えてくると、そういう入手ルートをきちんと考えながら開拓していったと思います。

譽田 交易は一種のセーフティネットの役割があったのではないかと思うんです。何かあったとき助けてもらえる関係を作っておく。そういう相互扶助みたいな交流も、モノと一緒に緩やかに張り巡らされていったのだろう、と。

山田 たしかに相互扶助の仕組みができているので、かなりフレキシブルな社会だったと言えるでしょうね。でもそれが成立するのは人口の母数が少ないからで、土地や人、集団に対する感覚が弥生時代とはかなり違いますね。

譽田 縄文時代も定住生活はしているけれど、自分たちが生きる選択をするという意志をすごく感じるんです。稲作で土地に縛られた人たちに比べると、生きる環境は厳しくても、もっと柔軟で自由だったのではないかと。

山田 ある程度農耕社会が発達していくと、今度は権力構造が生まれて、人々を土地に縛りつけようとする。そうなると、強制的な定住生活になってしまう。究極の形が現在ですね。

譽田 ご著書の『縄文人の死生観』を拝読すると、“生命が自然に還ってやがて再生する”という循環的な死生観と、“親から子に受け継がれていく”系譜的な死生観の2つが縄文時代にはあったということですが、私には先祖崇拝的なイメージはありませんでした。

山田 茨城県の中妻貝塚から101体もの人骨を合葬した墓が見つかっています。これらの人骨は一度埋葬されたものを掘り起こして血縁の関係なく寄せ集め、再び埋葬したものです。合同で葬ることで、同じ一族の証しにしたようです。縄文中期までの集落は基本的には血縁関係を重視していた。それが中期末から後期初頭、今から4300年ぐらい前に気候の冷涼化がきて、遺跡数がグッと減るんですね。

譽田 つまり人口が減少して、集落も少なくなったということですね。

土偶、石器や墓。すべて祀りと祈りと。

石皿と磨石(すりいし)といった調理道具も祭祀に。「これは石皿に食材をおき、磨石ですり潰す調理道具です。その様子が男女を表すと考えられて、日常品が呪術の道具にもなっていました」(山田さん/以下同)
母子の微笑ましいイメージから反転。「子を抱く土偶」の解釈にゆらぎが。「縄文集落の人口比率を考えると妊婦はひとりだけの場合があり、母乳が出るか出ないかは死活問題。切実な祈りを感じます」
合葬墓は縄文時代の祖霊信仰の証し!?「年代も血縁も異なる骨が集められて合葬されていることから、寒冷化で離散していた集団が温暖化で再び集まる際、新しい共通の祖霊として葬った祖霊信仰の形ですね」

国立歴史民俗博物館所蔵

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