「生きていくために原稿を書いているのですが、生きていくことそれじたいが自分の負担になっている。生きていくことが自分のためになっていない」
という不条理の中に作家はいる。
作家が主人公。作家の名前は田中さんーー。田中慎弥さんの新作『ひよこ太陽』は表題作を含む、七編の連作集である。本の帯には“私小説か、それとも作家の妄想か!?”とある。
「もちろん、純粋な私小説ではありません。が、自分を下敷きにして何かフィクションを書こうと思い、この作品が生まれました」
なぜ、自分を下敷きにしようとしたのか?
「書くとは何か? どういうことか? ということを常日頃考えていて、一度、作品で取り組んでみたかった。そして、もっと大袈裟に言うならば、小説の言葉というものが、世の中にまだ通用するのか、ということを確かめてみたいという気持ちもあった」
作中の作家は、書くことに悶絶する。机に向かって、一文も書けない日がある。一緒にいた女は部屋を出ていき、ある時には死の誘惑に取り憑かれたりもする。なんのために小説を書いているのかと言われれば、食べるためだと思う。
「生きていくために原稿を書いているのですが、生きていくことそれじたいが自分の負担になっている。生きていくことが自分のためになっていない」
という不条理の中に作家はいる。
連作集は、作家の日常に影のように忍び寄る母の友人の息子、Gなる人物や、目の前で出たり消えたりを繰り返す、何かの暗示めいた白い野球帽を語り継ぎながら、ゆるく繋がっていく。主人公がどこへ向かっているかは書いている作家自身にもわからない。また、ラストを最初に決めてそこに向かっていく、という書き方を、自分にはできない、と本人は言う。
「意識的に何かをつかもうとすると、知らぬ間にそれが逃げている。というか、それが逃げたところで手にしていたものこそが、自分の書くべきものなのではないか」
書けている、というときの感覚は、手のひらから何かが抜け出していく感じに近い。自分が次の1行を生み出すのではない、次の1行は目の前にぶらさがっていて、それを探しにいく。
「テーマありき、というものが書けないので、あえて言うなら自分はそもそも小説家に向いていないのではないかとすら思う」
デビュー14年というキャリアが、本作を書く動機ともなった。
「作家というのはひとり机の前でさも苦悩して仕事をしているように見えるけれど、実のところはどうなんだ? ということを自分なりに客観的に描写できたのは、今までにない体験でした」
見えない顔となったまま主人公の生活にまとわりついてくるGとの最終的な対峙。母のこと、郷里のこと、子どもの頃の遠い記憶……。
作中作家と作家のあいだを往き来する虚実。テーマありきの作品は書けない、とあっさり言ってのける作家が探し出す次の1行にこそ、現代文学の新しいリアルが見えてくる。
『クロワッサン』1003号より
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