夫が認知症になって7、8年。「買い物も散歩も一緒。2人で過ごす時間が増えました」
撮影・岩本慶三 文・篠崎恵美子
【正行さん・久子さん夫妻】
千葉県在住。久子さんは、ライターとして様々なジャンルの媒体で取材・執筆をつづけ、現在はジャズシンガーとしても活動中。正行さんは音楽関係の出版社を経て精密測定機器製作の会社に勤務。プログラム開発等を行っていたが、8年前、認知症に。
結婚して40年になる正行さんと久子さん。8年前に正行さんが認知症と診断され、少し前のことも覚えていられなくなった。でもあえて病気を隠さず、さらけ出して生きて行こうと決めた2人に日々のあれこれを聞いた。
6月某日。梅雨入りをしたのに、抜けるような青空、快晴の1日になりそうだ。
午前7時半。久子さんは、起きてきた夫の正行さんに声をかけた。
「きょうはお天気が良いから、久しぶりに海に行ってみない?」
しかし正行さんは「いや、調子がよくないからやめておく」とつれない返事。
正行さんが認知症と診断されて7、8年が経つ。ただそのときどきで、アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、嗜銀顆粒性認知症などと診断名が変わってきた。どれが正解なのか、よくわからないと言う。
ここ数年、正行さんは、朝の調子が悪い。目が覚めたとたんに気持ちが悪い、やっとという感じで起きてくる。
———どんなふうに気持ち悪いんですか?
「うーん、背中にバーっと虫が這っているみたいな感じですね。見知らぬ虫たちが背中で宴会をしているんですよ。本物の虫だったら潰してしまえばいいけれど……」と、正行さんは顔を歪める。
苦しそうにしている正行さんの背中を久子さんはさすり続ける。さする手の温もりと刺激で少しはマシになるという。
風呂に入ると少し気分が良くなることもあるがすぐにぶり返す。こんな状態が午前中いっぱい、1日中続くことも増えてきた。
正行さんの様子が普段とは違うと久子さんが気づいたのは今から7、8年前だ。きのう伝えておいたことを朝になると忘れている。
「明日はこれこれこうだからね、と話しておいたのに、朝、仕事に出ていくときには、『きょうは何をするんだっけ?』ともう忘れていて……。度重なるから、おかしいなと」
2人でスマホに変更したけど、操作を覚えられなくて、結局、正行さんだけガラケーに戻した。
でもひとりで電車に乗って会社まで通うことはできた。
「そーお? そうだった? 全部わからなくなっちゃった。そんなことがあったような気もするし、なかったと言われたらそっちを信じてしまう……」
正行さんはその頃の記憶に全然自信がない。
10年ほど前、正行さんは十二指腸潰瘍、さらにその2、3年後に胃潰瘍で倒れた。「どちらのときか忘れてしまったけど、大量に吐血したんです」と久子さんが言うと正行さんは「そんなことあったかな?」と驚く。
入院して病院のベッドで寝ているとき、かけている毛布がウチにあるのと同じ、いや違う、とか、この毛布を見たことがある、いやない、とかと言う正行さんを見て、あれ?もしかして認知症が始まっている? と久子さんは思った。
結婚して40年。
「私たち、仲良しでもないけれど、子どももいないし、いっしょにやって行くしかない。あきらめかな(笑)」と久子さんが言えば、「何の面白みもないですよ(笑)」と正行さんは返す。でもファッションセンスも合っていて若々しい。2人で話す様子には楽しげな雰囲気が漂う。
出会いは職場だった。
「フォークやポップスの楽譜やジャズ理論の本を出版する音楽関連の出版社です。1970年代、楽譜って手書きだったんですよ。“浄書”といって、五線譜を烏口というペンで1本1本線を引き、音符のスタンプを押して作っていくんです。彼はそこで編集を担当したり自分の名前でコードの本を出したり。そこにわたしが新入社員として入社して編集を担当するようになったんです」(久子さん)
音楽好きな正行さんは、オリジナルの歌を作ってギターを弾いて、休日は銀座の洋食屋などで歌っていた。
ウソのような本当の話がある。
「ある有名な日本の歌手が、彼の作った曲を気に入って歌いたいって。すごいって喜んでいたのに、会社の先輩が勝手に断っちゃったんです。惜しいことをしたよね(笑)」
「そんなことあったな」正行さんも思い出したようだ。
「でもギターはもう弾けない。弾き方を忘れてしまった……」
正行さんが一人で留守番ができないので、結局、毎日一緒に過ごすことが多い。買い物に行ったり、散歩をしたり。
出がけは、外出を渋って、途中も「あー、もう帰る、家で寝ていればよかった」と言っていた正行さんだが、駅のカフェでコーヒーとデニッシュを食べたら、少し元気が出てきたようだ。
「ね? 外に出たら、大丈夫じゃない?」と久子さん。
「具合が悪いのは家にいても外にいても同じなの。家にいたら気持ち悪いって寝ているだけ。だったら外に出ようよ、と誘うんです」
海に到着。久しぶりの浜辺は、まだ人影もなく静かだ。時折強い風が吹いて、帽子が飛ばされそうになる。そのたびにさりげなく正行さんの帽子を押さえる久子さんに、「ありがとう」と応える正行さん。
「気持ちいいよね〜」と久子さんが言うと、正行さんも頷く。
「最近、どんどん進行していて、洋服の着方もわからなくなってきています。シャツを2枚着たり、パンツを2枚履いたり」
「え?そこまでひどいかな」と驚く正行さん。
「でも家のトイレがどこになるかわからないことがあるでしょ?」と問われ、「それはあるね….」と沈んでしまう。
「あと、ここは自分の家じゃないと言い張ったり、実家に帰るって言ったり」
「そうそう」
「どうして親は自分に会いに来ないんだって訊いたり」
「そうだ、どうして会いに来ないのか訊きたいよ」
「もう亡くなったのよ」
「やっぱりそうなんだ、亡くなったのか……」
こんなやりとりができるのは長年連れ添った夫婦だから。