『普通の子』朝比奈あすか 著──自分にとっての“普通”は誰かにとっての異常
文・吉田明世
自分にとっての“普通”は誰かにとっての異常
いじめがテーマの本作。今年の4月から娘の小学校生活が始まった身として、このテーマに不安を感じつつも手に取らずにはいられなかった。主人公である美保子は母として子育てや家事をこなしながら、いち企業で働くいわゆる「普通」の働く母なのだが、その日常生活と心理描写があまりにリアルに表現されていて、これは自分の物語なのではないか…? と錯覚してしまう。ページをめくるたびに美保子に共感し、その共感が強ければ強いほど、ラストの10ページが自分自身に強烈な衝撃となって跳ね返ってくる。
思い返すと、自分の小学校時代もそれなりに大変だった。ちょっとした仲間はずれはちゃんと順番が回ってきたし、私自身もいつも誰かを守れるような正義感にあふれた児童だったかと言えば、そうではなかった。時には被害者にも加害者にもなっていたと思う。学校という狭い世界が子どもたちにとっては全てであり、そこでどううまく立ち回るかは人生を賭けた大きな課題だったから。
自分の子どもには、できれば学校で辛い思いをしてほしくないと思うのが親心。友達となるべくうまくやるためには、学校の中では「普通」の存在であってほしいし、「普通」に友達と仲良く穏やかに過ごしてほしいと願っている。ただ、この作品を読み進めていくうちに、「普通」であることの難しさを目の当たりにする。普通とは何か? 自分にとっての普通は、誰かにとっては異常なのかもしれない。誰もが自分自身の感覚こそが「普通」であり、目の前の相手との感覚にズレを感じた時に、相手こそが「普通でない」というレッテルを貼ってしまう。そうやって、自分の普通を正当化して、人と人は衝突してしまうのだろう。
これからの小学校生活で娘がどのような人間関係を学ぶのか、もちろん不安は多くある。私自身が小学生時代に経験した楽しくなかった方の経験は、なるべくしてほしくない。だが、当時いろんな苦難を乗り越えたからこそ、自分を守る術を学べたという面もある。いろんな経験により纏った鎧のおかげで、大人になった今、外部からの多少のストレスも受け流せるようになった。友達とのいざこざで絡まった糸は、子ども同士なら解くことができるはずのものでも、大人がそこに介入することによってより糸は複雑に絡まり、解けるはずのものが修復不可能になってしまうことがある。
これから目の届かないところで、私の知らない社会を生きていく娘。きっと楽しいことばかりではないだろう。暗い表情をして帰ってくることもあるかもしれない。さまざまな経験をし、心身ともに成長する娘と、どう向き合い、どう支えていくべきか。答えは出なくとも自分自身に問いかけ続けることが大切なのかもしれない。この物語を読み終えて、昨今のインターネット上で繰り広げられる「行き過ぎた正義感による袋叩き」の風潮が思い浮かんだ。我こそが正義、私は普通の人。私の子どもに限って…そんな風に思っている人が皆この小説に出会えば、世の中は変われるのかもしれない。
『クロワッサン』1140号より
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