おいしい料理が生まれる場所へ。
見習いたい、料理上手の台所vol.1
ジョエル・ロブションなど名シェフの賛辞を受ける食の歳時記『japanese farm food』の著者、ナンシー八須さん。埼玉の農家に嫁いだナンシーさんのお宅を訪ね、台所を見せていただきました。
カリフォルニア生まれのナンシーさんが最初に恋に落ちたのは、日本の寿司でした。
名門スタンフォード大学で文学を学ぶ傍ら、学生街にあるスシ・バーにせっせと通う日々。ついにはその主人の紹介で、日本で英語教師の仕事に就くことになったというのだから、その愛の深さのほどが窺い知れよう。かくして、1988年、カリフォルニアガールは初めて日本の土を踏みました。
時を置かず、ナンシーさんは人生を変える2回目の恋に落ちる。埼玉で有機農業を営む八須理明(はちすただあき)さんに出会ったのです。そしてナンシー八須となり、同時に日本の農家の嫁となありました。それから20年の歳月が経ち、ナンシーさんは『japanese farmfood』と題された一冊の本を著します。日本の農家の日々の暮らしとそこで作られる料理について描いた、食の歳時記です。同書は瞬く間に世界中の食通の心を摑み、ジョエル・ロブションなど名シェフの賛辞を帯に今も版を重ねています。
おいしいものに導かれるようにして人生を拓いてきた彼女は、今も農家の土間を改造した台所に立ち、地元で採れた食材で日々料理を作っています。そんなナンシーさんの台所を訪ねて、埼玉県・神川町へ向かいました。
開け放した引き戸の玄関で呼び鈴を鳴らすと、真っ黒なラブラドールリトリバーが2匹、ころころと転がるように飛び出してきた。その後ろから、淡い藍色に染められた麻ののれんをくぐって、ナンシーさんが現れました。
体全体で歓迎の意を表しているような、気さくな笑顔の彼女と挨拶をしさっそく家の中に入ります。と、途端に時間の流れが変わりました。築85年という日本家屋の高く古い梁、飴色に使い込まれた西洋の丸テーブル、形違いの5脚の木の椅子。着物を着た男性が写る古いポートレートの下には、分厚い洋書が山積みになってうっすらと埃をかぶっています。
「この家はおばあちゃんから引き継いだ後、夫のタダアキと二人で自分たちの手で、自分たちのスタイルに作り直したんです」
カーキ色のパリッとしたシャツに乗馬パンツ風のスキニーをはいたお洒落なナンシーさんの後ろには、大きな大きな台所。この空間で、ナンシーさんは世界中の食いしん坊たちを魅了した、日本の農家の知られざるおいしいごはんを日々こしらえているのです。
目を見張る私たちに、彼女はさっそく台所の説明をしてくれました。
「’70年代にリノリウムだった床はメキシコのタイルを敷きました。それから近所の骨董市で見つけた水屋箪笥を置いて、その上にタダアキが自分で切ったマラカイトを載せて天板にしました。後はもともとこの家で使われていた古材などを再利用したんですよ」タダアキと私はなんでも自分たちで作るんです、とナンシーさんは笑っていますが、このアイランド型の作業台も自分たちで作ったのですか? と思わず何度も聞き返してしまいます。
まずは蕪の葉を落とし、櫛形に切ります。ボウル代わりの大きな片口に入れ、塩できゅっきゅっと揉んだら、小ぶりな平皿を置いて、その上からいくつもの小鉢をのせて重しをします。
きゅうりは梅干しと鰹節で和えて、少しだけ醤油を垂らした。梅干しはナンシーさんの手作り、鰹節は丸の本枯れ節をたった今、削り器で削り上げたばかりのものです。赤大根は能登のいしりとだしで和えてから同様に重しをのせます。だしは、もちろん、昆布と鰹節から取ります。本日の味噌汁の具は豆腐と油揚げ。そこに吸い口のあさつきを散らしました。
「今日のあさつきはうんと細いから、いつもより少し長めに切りましょう」
「まっすぐじゃないけど、でもそれもいい。完璧じゃなくてもおいしいということ。それがとても大事です」とナンシーさんはおおらか。
「うちでは卵焼きはタダアキが作るんです」
理明さんはつい最近まで養鶏所を営み、オーガニックの卵を生産していたので、八須家では卵は彼の管轄なのです。慣れた手つきで片口に卵を割り入れ、砂糖と醤油で味をつけてから卵焼き器でくるくると形をととのえていきます。
陶芸をする理明さん自作のうつわに料理を盛りつけて、丸テーブルに運び、二人ともいつもの席に着く。
白いご飯、豆腐の味噌汁。色とりどりの野菜の浅漬けに、ほかほかと湯気をあげる卵焼き。夫婦の会話は主に英語で交わされる。「これちょっと漬かり過ぎちゃったわ、あなたが帰ってくるのが遅いから」「コンバインで大豆の収穫をしていたら楽しくなって時間を忘れちゃったんだよ」……。
ナンシーさんの台所にはごく当たり前の日常の風景に、はっと虚をつかれるような「美」が潜んでいる。それは夫婦で手作りした天然石の作業台でもあり、友人の農家でつくられる旬の野菜でもあり、一回一回、丁寧に鰹節を削るナンシーさんのピンと伸びた背筋でもあります。
ないものは、プラスチックとショートカット。それが時にどんなに面倒でも、ナンシーさんは人のぬくもりが育てたものを使い続ける。
「私は古いものがとても好きなんです。だから骨董市に通ってはタダアキに内緒でいろいろと買ってきちゃうんです。だって、この近所にはとてもいい骨董市があって、信じられないくらい安い値段で売っているんですよ」
ぽってりと肉厚な片口を愛おしそうにさすりながら、ナンシーさんが教えてくれました。日本人がもう価値はないと置き去っていった生活の道具。それが今、ナンシーさんの手の中で息吹を取り戻している。海の向こうからやってきたこの女性の目には、私たちが享受する現代の暮らしはどう映るのだろうかとふと思います。
古いものの中に輝きを見つけて、それを見事に掬い上げるナンシーさんの瞳。その一対の光に土とともに生きてきた理明さんの逞しい腕が一緒になったとき、この台所は生まれたのです。
◎ナンシー・八須さん/米国・カリフォルニア州出身。スタンフォード大学卒業後に来日し、農家の八須理明さんと結婚。キンダーガーデン「サニーサイドアップ!」主宰。近著に『スタンフォードの花嫁、日本の農家のこころに学ぶ』(日本文芸社)、洋書『preserving the japanese way』