『壺中に天あり獣あり』著者、金子薫さんインタビュー。 「本当の自由には人は耐えられないと思う」
撮影・黒川ひろみ(本)大嶋千尋(著者)
青年・光は長いこと広大なホテルの中を歩いている。ホテルは無限の迷宮で、どんなに歩いても、螺旋階段が上下に延び、廊下が一直線に続くばかりだ。
これは、昨年、第40回野間文芸新人賞を受賞した気鋭の作家・金子薫さんの4作目の作品である。
出口もなければ季節も時間も存在しない迷宮はいったい何を意味しているのか?
「自分でも書きながら探っていったという感じです」
作品を書くにあたっては原稿用紙60〜80枚を平気でボツにすることもある。
「この前に書いていたものもひたすら廊下を歩くだけ、という小説だったのですが、先が続きませんでした。けれども、本作の1段落目が浮かんだときに、虚構の足場ができたというか」
〈言葉によって造られる迷宮のなか、光は当て所なく歩き続けていた。彼は(中略)言葉を使う言葉となって先へ先へ進んで行く。〉
「ボツ原稿も無駄ではない、新しい作品の足がかりになってます」
模造の動植物や模造の山河で、 理想郷を作ってしまおう
迷宮には玩具屋でブリキの動物の面倒を見る言海という女性が存在していて、光がある日、迷宮の中に立つ巨大なホテルを発見することから、物語は大きく転がり始める。
無限のホテルの中に立つさらなる無人のホテル。その描写がもの悲しい。天井に描かれた青空、投光器が照らす太陽光、豆電球の星、人工芝、外を模した内……。
それでも新たなホテルに辿り着いた光は、エレベーターで5階に上がるときに喜びを噛みしめる。それは時空のない無限のなかに“有限”を見出したときの、ある種、人間らしい感情ともいえる。
「本当の自由などが与えられたら人は耐えられないのでないか。多くの人は自分を拘束するものやことを、生きる拠り所にしているのではないか」
ここで光は決意する。ならばいっそ、無限から脱出を試みるのではなく、有志を募って閉じこもり、模造の動植物や模造の山河でここを理想郷にしてしまおう、迷宮の設計者の考えを無効にしてしまおうと。そしてブリキの動物たちを引き連れた言海も新天地に惹かれてここに合流することとなる。
限りある力や命を持つ人々に無限の世界は脅威と映る。
「人間の営みって、やったことよりもやらなかったことの堆積のほうが大きいですよね。それこそ、無限にあって。自分たちは自主的に何かを選択して生きているつもりでいても、実はちょっとしたことをやむを得ず切り取って生きているにすぎないのではないか」
という実感が金子さんにある。
「小説を書くということ自体がそうであるかもしれませんが」
冒頭で仄めかされるとおりに、光は単なる言葉を紡ぐ寓話の主人公にすぎないのか、あるいは……。広大な世界に対抗しようとする作家渾身の問いがここにある。
『クロワッサン』999号より
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