『戯れの魔王』著者、篠原勝之さんインタビュー。 「この世にいる、ってコトがおもしろい」
撮影・黒川ひろみ
鉄を操るゲージツ家の、クマさんこと篠原勝之さんが山岳地帯の作業場に制作の拠点を移して、かれこれ24年ほどになる。東京の下町に構えていた工場が手狭になった頃、山梨の河川敷にモニュメントの依頼が舞い込み、「行ってみたら甲斐駒ケ岳の見えるいい場所で。近くに工場建てただよ」。その暮らしぶりはというと……。
「この『戯れの魔王』でも書いたように舞台の稽古で東京に来たりするけど、それ以外は山で茶碗作ったり版木を彫ったり、蓮を植えたりしてる。今まで樽で鑑賞していた蓮を、池を造って本来の野生に戻したり。やることはいっぱいある、ただ金にならないだけで」
と、笑う。山で、東京で、体験して考えたことを文章にするのも、“やること”のひとつだ。
山、時々東京の暮らしの中から、生まれてきた4つの物語。
奈良・東大寺の長老から受け継いだ蓮を育てながら、母を看取るまでの時間を描いた「蓮葬(はすおく)り」、白塗りメイクの舞踏集団を率いるマロの誘いで舞台を踏むまでの顛末を語る「戯れの魔王」。毎朝窓から遥拝してきた甲斐駒の奉仕登山に挑んだ「アマテラスの踵」、作業場に瀕死の子猫が迷い込んでくる「ささらほーさら」と、ここにはいつもの暮らしから切り取られたひとコマが収められている。
「習ったことはないけど、茶も点てるよ。好きな茶碗で飲みながら、窓の向こうの甲斐駒を眺めたりしてね。冬は山のてっぺんがよく見えるじゃない、そうすると距離感がふっと消えるときがあるんだよ。ここにいるオレが、一瞬、あっちにいるような。世界がオレと山だけという感じ。きざに言ってるわけじゃなくて、そういう瞬間が本当にあるんだよ」
そうした、時間と空間がふと交差してなくなるような感覚は、舞台の上でも訪れる。マロさんの演出する舞台本番で、極度に緊張した瞬間、昔パレスチナで死と隣り合わせになった記憶がまざまざと甦り、我を忘れたのだという。
「そのときは、かつてのパレスチナの光景がわーっと頭の中にくるんだよ。甲斐駒観てるときと一緒で、此処ではなくなっちゃう。それはそれでおもしろかった。ジジイになって、あの世とこの世の距離がなくなっていく。あの世なんてすぐそこにもあるしな。うんと遠くじゃない。ふっと何かを観ていて、あの世とこの世が曖昧になっていったらいいな」
今は山での生活、時々東京、というのが、よい距離感なのだと語る。山では、ひとりでいても退屈でもなければ寂しくもない。その“なんでもない”という状態になるのが、またよいのだと。ひとりといっても、植物や虫、蛇にイノシシ、猿たちに囲まれ、時には子猫が迷い込む。骨太な筆致で細やかに描き出されるのは、儚くて力強い、たくさんの命だ。その、溢れんばかりの命の物語を、じっくり噛み締めながら味わううち、いつしか心の栄養になっている……そんな、4編がここにある。
『クロワッサン』995号より