豊かで充実していれば「幸せ」は得られるものなのか?│束芋「絵に描いた牡丹餅に触りたい」
「絵に描いた牡丹餅」という言葉。役に立たないものや、実現する見込みのないものを指す。けれどもこの牡丹餅、私の生活において常に重要な役割を果たしている。ここでは、自身の生活に密接に関わっている“描かれたさまざまな餅”をテーマに書いていきたい。
第一回目は「幸せ」について。先日、友人の結婚式がラオスのルアンパバーンであった。新郎新婦の友人たちにはタイの方も多く、同じ席にはタイ人のTくん、タイ人と日本人のハーフのWさん、日本人だけどタイ在住のSさん、そして日本人の私。Sさんは、タイに来てから、不思議に思っていることがあるという。「タイは日本に比べると、多くの面で充分とは言えないことが多い。それでも日本人よりもずっと幸せそうに見え、逆に言うと、日本人は充分すぎる環境の中で、どうして幸せそうに見えないのか」と。Sさんの意見に私も同調しつつ、日本には社会的な問題も山積みだと感じていた。
そんなとき、Wさんが「豊かで充実していることから得られるのは、“満足”だよ。“幸せ”とは違うよ」と。この言葉にSさんも私もびっくり。Wさん曰く「満足にはそれぞれが達成すべきメモリがあって、そこを超えると“満足”が得られる。けれど、幸せにはメモリはない。ただそこで子どもが遊んでいるのを目にしただけでも、“幸せ”は得られる」というのだ。それまで、私の幸せのイメージは、各自が「自身の可能性」という器を持っていて、それが満たされた状態。私を含めた日本人の多くはそれを幸せだと勘違いして、幸せになるために体や家庭を壊したり、その器が満たされないのを社会のせいにする。満足を得られても、幸せからは遠ざかっていくのだ。
絵に描いた牡丹餅でお腹が満たされることはないけれど、その牡丹餅を見て口の中に広がる味に想像を膨らませたり、餅を描いた作者に思いを巡らすことで、フッと幸せを手にいれる瞬間が訪れることもあるという、そんなことなのかもしれない。
束芋(たばいも)●現代美術家。近況等は https://www.facebook.com/imostudio.imo/
『クロワッサン』973号より
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