人の複雑さを演じきる、田中裕子の凄み。映画『千夜、一夜』。
北の離島で「特定失踪者」となった夫の帰りを30年待っている妻。その心の奥を描く。
文・黒住 光
『千夜、一夜』
映画『千夜、一夜』で田中裕子が演じるのは、離島の港町で魚をさばく仕事をしながら一人暮らすヒロイン登美子。
彼女の夫は30年前に突然姿を消した。夫婦が暮らしていたのが日本海の佐渡島であるという地理的条件から、北朝鮮による拉致の疑いも拭いきれず「特定失踪者」の扱いとなっている。
本土に渡って尋ね人のビラ配りをしたり、地道な捜索活動を続けるうち、いつしか30年の時が過ぎていた。
そんな登美子の元へ、2年前に失踪した夫を探す女性、奈美(尾野真千子)が相談にやってくる。同じような境遇に悩む人たちのネットワークが作られているのだった。登美子は奈美の夫も探し始める……。
田中裕子は言うまでもなく日本映画を代表する名女優の一人。
NHKの連続テレビ小説『マー姉ちゃん』(’79)で注目された後、『おしん』(’83)で主演。’80年代には数々の映画で絶賛される演技派スターとなった。
’80年代当時流行の“翔んでる女”的なイメージとは一線を画し、しかし“古風な女”の枠にも収まらない、その個性。
映画『天城越え』(’83)、『夜叉』(’85)などでは男を惑わすファム・ファタールを妖艶に演じたが、いわゆる“魔性の女”路線に定着してしまうこともなかった。
か細く甘い声音が持ち味なのだが、媚びる女にはならない。演技派と評されるが、憑依型の大熱演はしない。弱いようで強く、強いようで弱い姿。分かるようで分からず、分からないようで分かる心。つまりは人間の不思議さを演じ続けてきた。
そんな田中裕子が演じる『千夜、一夜』のヒロイン登美子は、ただ健気に“待つ女”であるはずはない。
登美子が自分より若い奈美に対して見せるのは優しさでもあり、残酷さでもある。正しいことと間違っていることの間に立つ人間の、哀れでもあり雄々しくもある姿である。そういう人間を演じて見せられると、観客は「ああ、凄い映画を見たなあ」と感嘆するほかはない。
\ココが見どころ!/
コロナ禍で撮影隊が離島を訪れることのリスクを懸念し、主演の田中裕子さん自身が撮影中断を決意。2年を経て撮影が再開され、企画から6年をかけて完成したという執念の作品。
それだけの想いが込められた丁寧な作りと、俳優陣の繊細な演技が見どころ。
やはり圧倒的なのは主演の田中裕子さんの存在感です。家族が失踪した人はつらいねという単純な話ではなく、「待つこと」「そこに居続けること」を通して人生を考えさせられる映画です。
『クロワッサン』1079号より