『ゆっくり歩く』小川公代 著──世界への親密さを回復する、母と子の歩み
文・青野 暦
小川公代さんの本は、『翔ぶ女たち』を読んでも、『ケアの物語』を読んでも、いつもそうだと感じるが、一冊のかたちで、閉じていない。この世界の様々な場所と声と、親密につながる「多孔的」な構造をしている。未読の作家への導きをもたらしてくれたり、一度読んだ作品と再会をしたくなったり、「本をもっと読みたくなる本」がわたしは好きだ。まさにそうした本であることにプラスして、『ゆっくり歩く』を読んでいると、これは「人に会いたくなる本」なのだ、と感じる。読み手のなかにある他者への様々な距離感を、文章に宿る明るい声、小川さんが世界から聞き取ったあたたかい声に、柔らかくほぐしてもらいながら読んでいくことができる。やはり「母」に、家族に会いたくなる一冊だ。
難病として知られるパーキンソン病になったお母さまの介護をしていくなかで、目の前の「今ここ」をケアする、「ケア実践」について小川さんは思考する。それを文章にすることは、本作でご自身が最初にふれているように、大学に勤める研究者として鍛えあげた「エピステモロジー(epistemology)」つまり知の体系を形成していく、一歩引いた客観的な思考よりも、実際に目の前に人間が存在するということ「オントロジー(ontology)」を如何にすくいあげるかという問いに満ちる。
認識論から、存在論へ。論文、評論から、エッセイへ、もしかしたら、詩や小説の方へ、文章は色合いを変えてきている。「母」と「わたし」の和歌山弁の響きが聞こえるように台詞を描くところは、戯曲のようでもある。その文体のフィクションへの勾配をゆるす姿勢が、「ケア・アバウト」から、より直接的に相手の世話をする「ケア・フォー」へと向かう姿勢とも比例して、わたしには思われた。目の前の現実の、母の病の心身のままならなさ、痛み、苦しみ。既に亡くなっている「お父さんのところに行きたい」と口に出す母の横で、小川さんは、しばしば絶句するしかない。母の苦しみを、別の身体を持った他者である自分にはわからない、と繰り返し確認しながらも、文字通りともにいること。手をつないで、母の速度で歩くこと。あきらめずに、文学の話をすること。
不安にかられ、気持ちを沈ませて、扉を、窓を閉じようとしていく、母という存在へ、声を届ける。心をノックする声が、健やかにまっすぐに出ていく。その声の乗り物に載って、母のもとへ届くのは、たとえば、ボルヘス、ハン・ガン、日蓮のつむぐ声。驚くのは、不調を訴えているお母さんが、小川さんの必死の声をよくよく聞いてくれることだ。手と手をがっしりと握り合い、黒雲のなかから、光の指すほうへ母子は行く。美しい雲そのものになって、世界への親密さを回復する。そのパワフルな歩みに、折々に紹介される、家族の物語が重なる。お母さんもお父さんも、読めば読むほど、こういう書きかたも失礼だろうが、只者ではない。ご両親がそれぞれの形で表現した、他者のために生きる覚悟を、書きとる手に、ともに歩く足に、新しい覚悟が宿っていく。
『クロワッサン』1159号より
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