もっと考察『光る君へ』「なぜ『道綱の母』なの?歴史に残る人物なのに名前がわからないって!」平安初心者の夫に「名前の感覚」について語ってみた(特別編2)
文・ぬえ イラスト・南天 編集・アライユキコ
作品は残ってるのに、作者名がないなんて
「みちつなのはは?……母?なんで?」
大河ドラマ『光る君へ』を観ながら夫が困惑しきった声を上げた。
5話(記事はこちら)で兼家(段田安則)の妾・寧子(財前直見)が登場した瞬間に、私が
「『蜻蛉日記』の作者!藤原道綱母出てきた!」
大喜びしたのを聞いて数秒の間があってからのことだ。
「ん? 藤原道綱母。小倉百人一首の『なげきつつ一人寝る夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る』の作者です」
「その歌は知ってるけど『道綱の母』って……。オープニングでは、財前直見は藤原寧子となってた」
「役名ですね。兼家の妾、道綱の母の名前はわかってないので」
「そうなんだ」
その場ではそれで終わった。が、先日の週末ドライブ中、高速道路で渋滞にハマって動けなくなった車内で唐突に夫が言い始めた。
「あの『みちつなのはは』なんだけど。わからん、なんで名前がない?」
「わっ、びっくりした。それ、あれからずっと考えてたの?」
「作品は残ってるのに、作者名がないなんて」
「えーと……『源氏物語』作者の紫式部も『枕草子』を書いた清少納言も、本名はわかってないんです」
「そういえばそうだった。むらさきしきぶ、せいしょうなごんも個人名としては変だもんな。ドラマではまひろ(吉高由里子)、ききょう(ファーストサマーウイカ)だ」
女性の名は特に秘密
車はゆるゆると進み、車窓からは目にも鮮やかな緑の山並が見えていた。
景色をじっくり眺められるのはいいが、居眠り運転を起こしては大変。眠気覚ましに、こういう話はちょうどよい。
「もともと日本には、古代から男女ともに本当の名前を家族以外には教えない風習があって」
「そういうのは、他の国の例もなんとなく聞いたことがあるな。本当の名は明かさない……エジプト神話とか」
「呪術的な考えなのかもね。その延長線上で、女性の名を知るのは家族と夫となる男性だけ、名を問うのは求婚の意味を持つようになったと。
『万葉集』の、
籠もよみ籠持ち堀串もよみ堀串持ちこの丘に菜摘ます児家聞かな名告らさね…
(美しい籠を持ち美しい堀串を手にして、この丘で菜摘みをしている娘よ。あなたはどこの家の娘なのだ。名を教えておくれ…)
これは求婚の歌なのよね」
「まあ今でも、苗字じゃなくて下の名前を聞いて、それで呼ぶのは結構踏み込んだ感じがするものな」
「確かに。で、そんなこんなで女性の名は特に秘密とされるものになっていった、と。いわゆる下の名前を『諱(いみな)』というんだけど、男性に対しても諱を直接呼ぶのを避ける風習は長く続くのね。大河ドラマは観ている人が混乱しないように『道長』とか『実資』とか諱で呼んでるけど、でも公的なシーンでは『大納言殿』『頭中将殿』などの官職で呼び合ってる筈。実資、行成の日記『小右記』『権記』でも『左府(左大臣)はこのように指示した』などの官職で記してるし」
「ロバート秋山が初登場で『右大臣様(兼家)の仰せになったことは正しかった。好きではないがな!』と言うセリフはインパクトあったな」
「2話だね」(記事はこちら)
「すぐ出てくるのこわい」
勤務経験がないから
渋滞がなかなか解消しないので、途中小さなサービスエリアに入った。車を停め、コーヒー自販機で熱いコーヒーを買う。ロボットが淹れてくれる様子をライブカメラで眺めながら、
「女房として勤めた女性たちは、夫や父親の家の名と官職をセットにしたビジネスネームで呼ばれていたパターンが多いのね。ドラマの15話(記事はこちら)では中宮・定子(高畑充希)がききょうと初めて対面したときに「今日からそなたを清少納言と呼ぼう」という場面があったけれども。清少納言は父と夫が少納言ではないので呼び名の由来が謎であったところ、今回の大河では『父とも夫とも関係のない、彼女独自の名前を中宮から賜った』という描き方をしたわけで……。他にも例えば、赤染衛門(鳳稀かなめ)は父の赤染時用(あかぞめのときもち)が右衛門府(えもんふ)の役人だったことから、そう呼ばれたのだそうで」
「となると、藤原道綱母は勤務経験がないから『道綱くんのお母さん』としか残らなかった?」
「まあ、そういうことになるね…….」
飲み物のできあがりを知らせるピーピー音で紙コップを取り出しながら頷いた。
「切ない。僕は切ないよ! 1000年経っても読み継がれる作品の作者なのに、誰かのお母さんというだけの名しか残ってないとは」
「逆に私は『ふじわらのみちつなのはは』を固有名詞として捉えてて、道綱の存在が頭から消えてましたわ。あなたのその視点が新鮮」
もう一杯、自販機にホットコーヒーを作ってもらい、話しながら待つ。
夫がため息混じりに言った。
「百人一首で道綱母の名前も『嘆きつつ….…』も知っているのに、今まで全く気にならなかったな。大河ドラマで財前直見が演じたから、この人の名前が不明だってことにショックを受けたのかも」
「歴史上の人物を生きた人間として意識させる。これぞ大河ドラマの効果!って感じで、私は誇らしいけどね」
胸を張る私に、
「なぜ鼻息荒くする、君が大河ドラマ作ってるわけでもあるまいに」
夫は呆れ顔である。
「ふはは、すまんね。ファンとして、つい」
できあがりのピーピー音に促されて、熱いコーヒーが入った紙コップを手に車に戻り、また渋滞の列に入ってゆく。車はじわりと流れてはまた止まり……という動きを繰り返すので、眠くならないよう私たちは喋り続けた。
あきこだらけ問題
「内裏での勤務経験がないなら、倫子(黒木華)もドラマの中だけでの名前かね」
「源倫子は史料に残ってる名です。彼女は官位を朝廷からもらって記録されている人」
「へえ、女性でも官位を」
「中宮・彰子(見上愛)の母として、その前に女院・詮子(吉田羊)を自分の屋敷でお世話したことで官位を受けまして」
「そう!それ! その『あきこ』!」
ハンドルを握る夫の大きな声に、またびっくりした。
「なんだなんだ、なんですの」
「あきこだらけ問題だよ。『光る君へ』は『あきこ』だらけだ。ありゃ一体どういうわけ」
「道長(柄本佑)の姉の詮子、道長の妻の明子(瀧内公美)、道長の娘の彰子……皆あきこだね」
「特に娘の彰子。道長のもう一人の妻である明子と同じ読みなのに、嫡妻の倫子は自分が生んだ娘にその名前をつけられて気にしなかったのか。夫・道長にそんなことをされて、嫉妬の炎メラメラにならなかったのか?」
「『あきこ』はドラマの中での呼び方で、彼女たちの名は史料に漢字で記されているものの、読み方まではわからないので。本当は彰子は『あきこ』じゃなかったかもしれない」
「ルビ振ってないんだ…」
「百科事典に載っている読みで詮子を『せんし』、明子は『めいし』、彰子を『しょうし』と呼ぶとドラマのセリフとしては視聴者に違和感を抱かせてしまうから、訓読みで統一したんじゃないかな。私は中宮・定子(ちゅうぐう・ていし)中宮・彰子(ちゅうぐう・しょうし)と覚えたから、ドラマでのさだこ、あきこ呼びに最初は馴染まなかったけど」
「なるほどねえ」
「ちなみに明子は盛明親王の養女になったので皇籍に名が残り、彰子は入内して官位を受け、名が記された」
子どもたちの名前
高速道路情報掲示板に「渋滞を抜けるまであと2㎞」と表示されている。カーナビアプリでも、このあたりの道路は渋滞を示して真っ赤っかだ。しかし、もう少し先は正常に流れているらしい。目にも涼やかな青色表示になっている。渋滞を抜けるまであとちょっと。
「ていし、しょうしかあ。家族の間で娘を呼ぶときにちょっと呼びにくいな」
「成人するまで……裳着の儀式までは長女を『大姫』とか『一の姫』、次女ら妹を『乙姫』や『二の君』、皇女なら『女一の宮』と呼んでいたそうなので」
「乙姫?」
「古代、姉を『兄姫(えひめ)』妹を『弟姫(おとひめ)』としたことから来ているとか」
「ほお。浦島太郎の竜宮城にいたのは次女ってことなのかね。長女はどこにいたんだ」
「それは知らんけど。で、成人して正式な名をつけられる……この辺は、男性と同じかな。倫子の長男の田鶴(たづ)が元服して頼通に、明子の長男の巌君は頼宗になるしね」
「女の子が長女を表す『大姫』とか『一の姫』なのに、男の子は幼名がついてるんだな。幼くても、女の子は名前で呼ぶのは避けたってことか」
「男の子も幼名はあるものの普段は『太郎君(たろうぎみ)』『二郎君(じろうぎみ)』とか呼ばれたんだろうけど……ドラマでも三男の道長は『三郎」と名乗っているし。女の子の場合は本当の名を呼ぶことを避けたのか、残ってないだけなのか。ただ、女の子が幼い時から名づけられていたらしい記録はあるの」
「ほお」
「藤原千古……千に古と書いて『ふじわらのちふる』或いは『ふじわらのちこ』」
「チコ!? チコちゃん!?」
「読みがチコかどうかは定かじゃないんだけども……例によって、ルビが振ってあるわけではないので。ただ、この女性を心から愛した親御さんによって日記に書かれているんです」
「日記か。『光る君へ』でも大活躍中の、あの時代の日記」
「そう。この千古の父、日記の主は藤原実資です。『小右記』に彼女の名前がある」
「実資!『小右記』! 本当になんでも日記に書いてるな、あの人!」
『小右記』にある「千古」
「あの人って、知り合いじゃないんだから……でも私も『光る君へ』放送後は、藤原実資を秋山竜次で思い浮かべてしまっている。それでも知り合いじゃないけど」
「チコちゃんの名前が『小右記』にあるのか」
「彼は若い頃に幼い娘を亡くしていて。年を取ってから生まれた娘、千古を溺愛したようなんですよ。日記に千古の名前は何度も出てくるんだけど、裳着の儀の後も結婚後も、父親として呼びなれた幼い頃の名前を用いているのではないかという説があってね……」
「そうか。可愛がってたんだ」
「千に古という字、長生きするようにという願いがこめられてるんじゃないかな。で、藤原千古がこの名とは別に、成人したのちに〇子という諱がついたのだとすれば、詮子や倫子、明子たちもこの正式な名とは別の、幼い頃から慣れ親しんだ名前で家族からは呼ばれていたのかも。秘かにね」
「どんな名前なのか、想像するとちょっと楽しいな。まひろ、ききょう、さわ(野村麻純)みたいに、やわらかい響きの名だったのかもしれん」
琵琶湖へ
あれやこれやと話しているうちに、渋滞を抜けたらしい。突然、車が急流に乗ったかのように走り始める。
「『光る君へ』の話だと、膨らむなあ」
「おかげで眠くならずに済んだよね」
爽快なドライブに戻ることができた。
行き先は紫式部と縁の深い滋賀県、琵琶湖である。
おわり……。
『光る君へ』30話『つながる言の葉』ドラマレビューは8月17日土曜日公開です。