考察『光る君へ』10話 道長(柄本佑) の激しく熱い恋文に、漢詩で返すまひろ(吉高由里子)の「幸せで悲しい」誓い
文・ぬえ イラスト・南天 編集・アライユキコ
陰陽師が関わっていないはずはない
冒頭の、兼家(段田安則)と安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)の密談。言葉の意味はわからんが、とにかく計画決行はこの日この時間しかない、それを告げたのは安倍晴明ということだけはわかる場面だった。平安貴族は何をするにも、例えば目的地までの行程、出勤できるか否か、爪を切る日まで陰陽道に基づいて決めていたのだ。ましてやそれがクーデターであれば陰陽師が関わっていないはずはない、という筋立てか。
怯える道綱
道隆(井浦新)道兼(玉置玲央)道長(柄本佑)三兄弟に加えて、ことを極秘裏に素早く進めねばならぬ、そして人手が必要であるということで父に呼ばれたのであろう道綱(上地雄輔)。彼は突然告げられた恐ろしい計画と「人に見られたらその者を始末しろ」という冷酷な指令、母・寧子(財前直見)のもとに通ってくる父とは全く違う顔に、戸惑って怯えている。気の毒に。
一族の栄達のために、表と裏の英才教育を受けてきた三兄弟と彼は違うのだ。
寧子は夫に息子を引き立ててほしくて躍起になっているが、彼女は兼家のこうした一面を知っているのだろうか。
花山帝の不幸
忯子(よしこ/ 井上咲楽)を成仏させるため出家すると言う花山帝(本郷奏多)、それに慌てる義懐(よしちか / 高橋光臣)と惟成(吉田亮)。お諫めするのが側近の務めであるが、そこで義懐から出てくる言葉が、
「新しいおなごもいくらでもご用意いたします」
説得へたくそか。帝の忯子への思いを否定して、今まで話が上手く運んだことがあったか。うるうると澄んだ瞳で嘘を述べ、帝をコントロールする道兼を少しは見習うとよい。
しかし、亡き妻の霊を慰めるのが政より何よりも優先したいこととは……。この言葉を聞くと、かえすがえすも伴侶としてはともかく、妻たちを見るにも常に政治的な目線を忘れなかった円融帝(坂東巳之助)が帝としてはまともであったのだと思う。実資(秋山竜次)が譲位を思いとどまるよう、乞い願ったのも頷ける。
この作品における花山帝の不幸は、玉座におわすにはピュアすぎたこと、そのピュアな御心を国政に活かせるよう導く人物が不足していたこと。実資と為時(岸谷五朗)だけでは浅慮な側近と陰謀に長けた重臣たちから守り切ることができなかったし、そもそも為時は兼家の間者だった。
真田昌幸のごとく
道長にクーデター計画における兄弟の役割分担の本意を明かす兼家は、戦国時代の武将を連想させる。
「この謀がしくじった折には、お前は何も知らなかったことにして家を守れ」
関ヶ原合戦で東軍と西軍に長男次男を分けた真田昌幸のごとく。いわゆる戦国大河ではないが、伸るか反るか、生きるか死ぬか男たちの戦うさまは、見ごたえがある。
寄る辺ない女性の境遇
為時が「高倉の女」のもとに長居することを嘆く乳母・いと(信川清順)は、第4回のレビュー(記事はこちら)で触れたとおり、やはり為時の召人のようだ。
「殿様がお戻りにならず若様も婿入りされたら、私は用なしとなり、生きる場所を失います」
女のもとに男が通う、通い婚が習わしだった平安時代は、男が心変わりするなどして訪れがなくなれば、経済的に困窮する女は数えきれないほどいただろう。芥川龍之介『六の宮の姫君』では身寄りのない高貴な姫君が、夫が地方赴任で都不在の間に家を無くして朱雀門で雨風を凌ぎ、そのまま息絶える姿が描かれる。この作品は『今昔物語』が原典であり、当時の寄る辺ない女性の境遇を今に伝える。
衣食に事欠くどころか、住居までなくす……妻・妾の数に入れられない召人となれば尚更だ。いとが切実に訴えるのも、無理はない。
若様(惟規 /高杉真宙)のもとに引き取られるなら為時にこだわらぬというのも、今回の嘆きは高倉の女への嫉妬というより、衣食住を失う恐怖が彼女にあったからだということがわかる。
そしてまひろが目にする、病の高倉の女と、献身的に介護する為時(岸谷五朗)の姿。
「一人で死なせるのには忍びない。見送ってやりたいのだ」
まひろが、いととの会話で
「父上は、いとのことも大切に思っているわよ」と言った。この言葉は、第1話(記事はこちら)での母・ちやは(国仲涼子)の「父上は、私のこともいいと思ってくれてると思うわよ」という言葉と口ぶりを思い出させる。高倉の女は、ちやは存命時から続いている妻だという示唆だ。長年連れ添った女が病みやつれても見捨てず通い続け、看取りまでしたいという為時。ちやはを思わぬ形で喪ったことも影響しているのだろうが……。
娘のまひろでなくとも、彼の優しさに心打たれるではないか。
『源氏物語』の光源氏は、末摘花をはじめとして一度でも情を通じた女には厚く庇護を与えたという設定の人物である。そうした男が、まれだったからこその光源氏像だろう。
紫式部が男の心変わりによって経済的に追い詰められる女たちに心を痛めていたことは、想像に難くない。
さすが行成
道長がまひろに送る恋の歌。
思ふには忍ぶることぞ負けにける色には出でじと思ひしものを(古今和歌集503番)
(恋しさに耐える心が負けてしまったよ。隠しておこうと思ったのに)
死ぬる命生きもやするとこころみに玉の緒ばかり逢はむと言はなむ(同568番)
(愛しくて死にそうだが生き延びるかもしれない。試しに少しでいいから逢おうと言ってくれないか)
命やはなにぞは露のあだものを逢うにしかへば惜しからなくに(同615番)
(露のようなこの命なんか。逢える時間と取り換えられるなら惜しくないんだ)
どれも激しく熱い。しかし、第5話(記事はこちら)の「ちはやふる神の斎垣も越えぬべし……」が本歌取りであったことと比べると、今回は古今和歌集の歌をそのまま。どこか切羽詰まった、恋の熱とは違う余裕のなさを感じる。それに対して、まひろの返事は陶淵明の「帰去来辞」。
まひろが冷静に距離を取り、諭している。
男女の恋の歌は、男からの恋文に女が「そんなことを仰るけれど、あなたのお心は真実でしょうか」などと始めは乗り気でないそぶりを見せるのが、やり取りの常道である。が、まひろがよこした漢詩はそうした駆け引きとは違う。
そもそも、恋の歌に漢詩で返してくるのが異例であるので、道長は悩んだ末に行成(渡辺大知)に相談する。彼の答えは誠実だ。
「漢詩は志を表しております。送り主はなんらかの志を詩に託しているのではないでしょうか」
確かに、さすが行成だ……。ところで。
行成は道長と話しながら、幾度かごく僅かに表情が変化している。渡辺大知はこの場面で、もしや非常に繊細な芝居でなにかを表現していないか。この先、この表情の意味がわかる時が来るかもしれない。
源明子登場
源明子(瀧内公美)が一瞬だけ登場。彼女は詮子(吉田羊)が言うように、醍醐天皇の臣籍降下(皇族が姓を与えられて臣下の籍に降りること)した皇子・源高明の娘である。源高明とは政変で失脚した先の左大臣……そう、第1話で散楽一座がトウの一族の陰謀として演じ、兼家ら藤原兄弟が画策したと当時から噂されたという安和の変である。このとき明子の父・高明は大宰府に流され、彼女は叔父(盛明親王)の養女となった。
弟・道長の妻にと望む詮子は、親しくつきあっているようだけれど、実父を失脚させた兼家の一族と関わることを、明子自身はどう思っているのか。
とても美しいが、ちらりと見せた表情で屈託を抱えていそうな女性だと伝わるところ、さすが瀧内公美である。
第10話にして、貫禄が増す詮子。
……というか、兼家そっくり成分が増している。円融帝が詮子を遠ざけたのは、勢力を強める兼家との政治的バランスを取るためと思っていたが、それだけではなくこの親子の似た部分を敏感に感じ取り、嫌悪していたからではないだろうか。
「いずれわかるであろう。己の宿命が」
宿命。道長にとって詮子からだけでなく父・兼家からも聞かされている言葉である。
道長の思い、まひろの思い
ついに直球、漢文で「我もまた君と相まみえんと欲す」。
これを読んでまひろは走る。何も書かれていなくても、わかる。あの六条の荒れ屋敷で彼が待っているのだと。
道長からの熱烈な恋文も駆け落ち提案も、クーデター計画と父、姉から明示された宿命からの逃避でもある。それに愛しい女への想いと男としての欲望が混ざりあい、とてつもない激情として噴出している。まことに若者らしい。それを、心許ない目線と震える声で表現する柄本佑の見事さよ。
駆け落ち提案について、まひろの答えは、
「でも、あなたが偉くならなければ直秀のように無惨な死に方をする人は無くならないわ」
ああやはり、第9話(記事はこちら)の「私が男なら内裏に上がり世を正します」は、それを叶えられる男……道長に託す道筋だったか。
まひろがここに来たのは、逢いたくて逢いたくてという激情に突き動かされたからではない。あなたが好きだ。とても好きだ、心から愛している。だからこそ、その使命を果たしてほしいと告げに来たのだ。幼い頃から漢詩漢籍で人の道を学び、三郎の真実の身分を知った時も、単に諦めよう……ではなく「離れるために何かしなければ。この命に使命を持たせなければ」と考えた女である。
宿命の捉え方が、まひろと道長では違うのだ。いや、まひろの言う通り、道長にも本当はわかっているはず。
「俺はまひろに逢うために生まれてきたんだ!」
私なら、バカタレッこのボーヤが甘ったれるな!と叱りつけてしまうところだが、根気よく諭すまひろ。愛を知った賢い女は違うなあ。
「片時も目を離さず、誰よりも愛おしい道長さまが政によってこの国を変えていく様を、死ぬまで見つめ続けます」
ああ……これは紫式部になる確かな宣言だ。ふたりだけの秘密の場所で、彼女は誓ったのだ。男女の肉体的な交わりを契りとも言う。契りとは、前世からの宿命、固い誓約でもある。
「幸せで悲しい」
少なくとも、まひろはこの契りの意味を噛みしめている。
「見えざる者」が告げる
寛和の変。道兼と花山帝の会話は『大鏡』に記されたものを基にしているようだ。
玉置玲央と本郷奏多が、平安の一大事件をコミカルに仕上げた。
道兼と花山帝ふたりの場面は軽くコメディ調なのに、兼家とその子らが映る場面では緊張感がとてつもない。特に、内裏の全ての門が閉められ、剣璽渡御(けんじとぎょ)──天皇の証たる剣璽が、おやすみになっている幼い東宮の傍に置かれ、内裏の全ての門が閉められたとき。観ているだけなのに、もう後戻りはできない……という、絶望感にも似た溜息が漏れた。
しかし一番印象的であったのは、花山帝と道兼が乗った牛車が安倍晴明の屋敷前を通った際の場面だ。天を見上げ星を読む晴明に、彼の従者である須麻流(DAIKI)が告げる。
「ただいま、牛車が屋敷の前を通り過ぎていきました」
この場面も『大鏡』にあるのだ。晴明の屋敷の門扉を「見えざる者」が押し開け、帝が屋敷前を通り過ぎることを主に告げたのだという。
そしてその「見えざる者」を、この作品では軟骨無形症の俳優・DAIKIが演じる。
『光る君へ』は当時の身分制度を、第1話のちやはの惨殺と、それに対して沈黙せざる得ないまひろの家族から語り出し、更に直秀たち散楽一団、武者たち、召人としてのいと…彼らの存在で深めている。支配者層からは一個の人間として扱われない人々がいるのだと。
ましてや生まれながらの病の人、体が不自由な人は、支配者層の目には入らない存在──「見えざる者」だったのではないか。
レビュー第4回(記事はこちら)で私は、紫式部は当時顧みられることのなかった召人という存在に名前を与え、思いを語らせたのだと書いた。本作はその紫式部が主役の大河ドラマだ。歴史のシビアな現実から目を逸らさない、気骨ある作品だと思っている。
得意満面の道兼に
ついに花山帝の剃髪が成ってしまった。
「お傍にお仕えできて、楽しゅうございました」。
道兼、ヒールとして百点満点。お前との遊びは楽しかったぜ! という類の言葉は、ハリウッド映画などで、悪役が高笑いとともに告げる定番ではないか。しかしそうした悪役はこの手の台詞のあと、高層ビルから落ちたり大爆発に巻き込まれたりしてあえなく散るパターンが多い。
私は誰よりも父上のお役に立てている、ミッションを完璧にこなしたぞ……!と得意満面の道兼だが、このあと高い所から真っ逆さまに落ちたりはしないか。このレビューが始まって以来もう何度目かわからないほどだが、今週も書く。
大丈夫か、道兼。
蔵人全員の任を解く……!
夜が明けて、兼家とその一族がすべてを掌握した世が始まった。
花山帝の出家と東宮践祚(せんそ)を知らされ、仰天して
「こんなことはおかしい!」「昨夜何があったか、お聞かせいただかねば筋が通らぬ!」と叫ぶ実資。『小右記』には寛和2年(986年)6月の記録が残っていない。が、実資であればきっと、こんなふうに「こんなことはおかしい」と日記に記していたであろうと思われる。
いま勤めている蔵人全員の任を解く。つまり、為時失業……。
次週予告。父と兄家族の宴に招かれてないらしい道兼。道隆、こんなに大きなお子さんいるんだね!回。幼き帝の即位式、大河で冕冠(べんかん)或いは日形冠(幼い帝の冠)って何気に珍しくないですか。倫子さまの厳しい言葉は一体……。兼家の言う「虫けら」ってもしや。道長、妻になってくれってまひろに言ってるの?
第11話が楽しみですね。
*このレビューは、ドラマの設定(掲載時点の最新話まで)をもとに記述しています