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【紫原明子のお悩み相談】昔ちやほやされていた同僚のFacebookに苛々します。

『家族無計画』や『りこんのこども』などの著書があるエッセイストの紫原明子さんが読者のお悩みに答える連載。今回は同僚のSNS投稿にイラついてしまう女性からの相談です。

<お悩み>
若い頃は美人でちやほやされていた同僚(アラフィフ)のfacebookにいじわるな気持ちを抱いてしまう自分が嫌になっています。
彼女は年の割にはまだまだキレイだと思いますが、さすがに毎日のように、自撮り、肌露出度の高いドレスを着た全身写真、明らかに男性と一緒の思わせぶりな写真(肩や腕などがちらりと写っているなど思わせぶりなショット)などをシェアしているのを見ると、「いい年してみっともない…」と小姑のように苛ついてしまいます。
時折気のおけない同期の友人などと「あれはちょっと引くわー…」みたいな悪口を言ってしまい、その後どっぷり自己嫌悪に陥ります。
私はなぜあんなに彼女に苛ついてしまうのでしょうか。自分の心に闇に向き合うべきなのかもしれないと悩んでいます。 (相談者:のんのん/女性/40代OL、わりと大きめの企業で管理職をしています。)

紫原明子さんの回答

のんのんさん、こんにちは。
このお悩み、誰にも言えないけど物凄く共感できるという人、案外多いのではないかと思います。身近な友人のSNS、気になりますよね! 一見、美味しそうな料理の写真を撮っている体裁で、その実本当に写したいものはテーブル奥にわずかに写り込む明らかに男性のものとおぼしき骨ばった指先なのであろう……とゲスの勘ぐりをしたくなる投稿がSNSには溢れていますからね。

しかし、かくいう私も、書き手としてはSNSに育ててもらったと言っても過言ではないので、昔も今も、自分でもぞっとするくらい長時間、SNSを見てます。
ただし利用における基本方針は自分の中で一つだけ決めていて、それは、見ていてストレスが溜まったり、気分が沈んだりするときは、なにより自分自身が消耗している証拠なので、しばらくの間、見るのをやめるってことです。

SNSの情報というのは、大勢の人の生活の断片、思考の断片で、大きさも重さもバラバラです。自分が元気なときは、さながら蚤の市に買い物に行くみたいに情報の中をさまよって掘り出し物を見つけられたりするんですが、元気がないと、雑多なものを見極めるってことができず、全部ガラクタだらけに見えてしまいます。いやそう見えるだけならいいんですが、もっと自分に余裕がないと、なんで堂々とガラクタ売ってやがんだこの野郎、とものすごく理不尽に毒づきそうになってしまいます。なので、元気になるまではとりあえず、本を読んだり、映画を見たりすることにしています。なぜなら本や映画というのは、SNSの情報とちがって、最初から最後まで整理され、パッケージ化された情報だからです。もちろん質の良し悪しや好みもありますが、SNSが蚤の市なら、本や映画は専門店やセレクトショップっていう感じがします。

と、まあそんな調子で私のインターネットライフは今日も概ね快適ではあるんですが、実は一つだけ、これは自分のためにならないからやめよう、やめよう、と思いながらどうにもやめられないことがあります。これを言うと周りの人たちから白い目で見られそうで憚られるんですが。でものんのんさんがせっかくご相談をお寄せくださったので、私も腹を括って打ち明けますね。
私、ふいにタイムラインに流れてくると不快になる発言ばかりする人、いわゆる言動のイタイ人のツイッターを、毎日欠かさず(多いときには日に何度も)、見に行ってしまうんです。

臭いと分かっているのに、わざとそのにおいを嗅ぎにいってしまうこの性分、失礼ながら、のんのんさんも私と同類ではありませんか? だって、そんなに嫌なら非表示設定にして目に入らないようにしてしまえばいいわけなので。でもそうせず、いじわるな気持ちを抱きながらもわざわざ見続けてしまうというのは、やはり見てしまう自分に抗えないものがあるのではないでしょうか。

私も長年、なんで私はわざわざそんなことしてるんだろうととても不思議だったんです(つまりこの行為は長年続いているというわけですが)。が、最近ふと気づきました。もしかしたら、私、安心しに行っているのかもしれません。

わざわざ見に行って、不快を味わって安心する。一体どういうこと言いますと、まず、つい見に行っちゃうようなアクの強い人って、大体長きにわたりキャラクターがぶれません。のんのんさんの同僚の方もきっとそうではないかと思うんですが、多分何年も似たようなことをやったり、言ったりされているんではないでしょうか。で、この変化の早いインターネットにあって、何年も変わらないものってそれだけでレアです。あそこに行けばよく見知った不快感がある、というように、不快な投稿をする人というのはある種、不快の専門店化、老舗化してしまうのです。

マズイ中華店のチャーハンでも、長年繰り返し食べていたらなんとなく食べずにいられなくなることありますよね。そんな感じで、移ろいやすい社会でもまれ、移ろいやすいインターネットでもまれ、今にも自分が迷子になってしまいそうなとき。私も変わらなきゃいけないのかなって無性に焦ってしまうようなとき。そんなときに、今日も明日も連綿と続く老舗の不快な投稿を見ると、「変わらない味がここにあった」と、とりあえず安心することができるというわけです。

さらに言うと、そこには別の種類の安心もあります。それは、他人がイタイことをしているのを高みから見物することによって、今日もいろいろあったが自分は少なくともこんな風にイタイことはしていないぞ、という安心感です。自分一人で思うばかりでなく、友人と悪口を言い合うことによって“やはりあの行為は私の思ったとおりイタイことなんだ”“イタイことをしてこんな風に陰口を叩かれている可哀想な人がいるが自分は違うぞ”、と思えるので、安心感はさらに増強されます。

こんな風に、苛つくのになお見てしまうSNSの投稿には、少なからず、私達を安心させてくれる要素があるのだと私は思うのです。ただし、この手の安心感ってやはり諸刃の剣でもあります。イタイことをすると周りの人にこんな風に陰口を叩かれるんだ、こんな風に見下されるんだって、見るたびに自分の体に覚え込ませてるのと同じだからです。だから、たとえ気休めにはなっても、自分をどんどん縛っていく。ましてや、自分を解放し、自由に羽ばたかせてくれるエネルギーになることは、恐らくないんでしょう。

のんのんさんは、自分の心の闇に向き合うべきか、と書かれていますが、誰かを見下すことで安心を得ることってよくあることだし、ましてや悪口を言ったあとで自己嫌悪に陥ってしまうくらいだから、のんのんさはむしろ人一倍正直者で、日頃から厳しく自分を律することのできる方なのではないでしょうか。

だからこそ伺いたいのですが、最近、毎日の中で窮屈さを感じていませんか?
やりたいことがやれていない、自分の能力が十分に発揮できていない、休みが取れていない。もしくは、職場の人間関係やプライベートの友人関係が長年変化していない、など何かしら閉塞感はないでしょうか。生活の中のどこかにマンネリがあって、できれば新しい風を吹き込ませたいという気持ちがあって、けれどもその希望を到底無理なことと、抑え込んでいるということはないでしょうか。

もし心当たりが少しでもあれば、絶対に変えられないなんて思わず、できることから少しずつ、状況を変えるための試みを始められてはいかがでしょうか。そうでなければ、これまでやってことのないことを、1週間に1個、必ず何かやってみる、と決めるとか。

僭越ながら私は数ヶ月前、生まれて初めてのストリップ鑑賞に行ってきました。誰かを誘おうかとも思ったんですが、女性が大勢で行くと何か申し訳ないような気もして、ドキドキしながら一人で行きました。非常に刺激的な経験でした。
やったことのないこと、行ったことのない場所って、きっとまだまだ沢山あるはずで、それを人知れず実行していくたびに、昨日までとは少しだけ違う自分に、なれるような気がしませんか?

イタイ人ってたしかに笑われたり、陰口叩かれたりするけど、結局のところ、やりたいことやってるんですよね。守りに入らず生きている。イタイ人を笑うだけの人には、絶対にできないことをやってるんですよ。

笑われたり、陰口を叩かれないことも大事だけど、でも自分のやりたいことをやって、自分を充足させることもとても大事なことだと私は思います。ですからのんのんさんもそして私も、イタイ人の観察を続けつつ、しかしたまには自分もイタイことしていきましょう。人の物語ばかり享受して終わるのでなく、たまには自分自身を、物語の主人公にしてやりましょうよ。
そういうの、どうですか?

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イラスト:わかる
イラスト:わかる

紫原明子● 1982年、福岡県生まれ。個人ブログが話題になり、数々のウェブ媒体などに寄稿。2人の子と暮らすシングルマザーでもある。Twitter

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