『I』道尾秀介 著──読後に残るのは、鮮烈に美しい風景描写
文・川奈まり子
雨の匂いが好きだ。ことに降り始めるときの石を想わせる香りに心惹かれるものを感じる。
あれは、アスファルトやコンクリートをも含む石に染みついた植物の油脂が、雨によって大気に解き放たれたことで生じる匂いで、「ペトリコール」と呼ばれるそうだ。
では、雨上がりの匂いはどうかというと、こちらは「ゲオスミン」といって、土中の菌類によって生成されるのだけれど、カビの臭いに通じる悪臭として感じる人も多いのだとか……。
いずれも語源はギリシャ語で、ペトリコールは石(ペトラ)と神神の血(イコル)、ゲオスミンは大地の匂いという意味だという。この語源を踏まえた上で、「ペトリコール」と「ゲオスミン」という二つの章で構成された本書を読まれたし。
話に登場する雨やガラス細工、海、洞窟、演劇といった小道具や背景が、単なる思いつきでちりばめられているわけではないことに気づくはずだ。ギリシャ神話を彷彿とさせるのは道具立てのみならず、登場人物についても同様のことが言えるだろう。
こうした隠された神話性を見いだしつつ、人称や視点の移動を利用した叙述トリックなどゲーム性の高いたくらみを堪能するためにも、どうか、斜め読みすることだけは避けていただきたいとつくづく思った。
と、申し上げるのも、「読む順番で結末が如何に変わるか?」という好奇心に引っ張られる気持ちが私にもよーくわかるからだ。
いや、だって《あなたの選択で、結末が変わる!!》って、宣伝コピーでさんざん煽ってくれちゃっていますからね?
しかし実は読み始めれば、すぐにギミックありきのストーリーではないこともわかるはずなのだ。
無戸籍児や若年層の自殺といった現代の社会問題を背景とした骨太の人間ドラマが描かれていて、私は、主人公たちの運命を辿りたい一心でページを繰る手が止められなかった。
結局、イッキ読みした後、再読、再々読してしまったのだが、最後に頭に残った場面は、なぜか水たまりに浮かぶキンモクセイの花筏だった。ちょっとした風景描写が鮮烈に美しいのも道尾秀介作品の特徴のひとつだろう。
ちなみに、キンモクセイには、「初恋」「陶酔」「真実の愛」の他に、死後の世界を表す「幽世」という花言葉がある。
……ああ、だからあの場面に出てくるのか!
などと思い返して腑に落ちた次第で、読書を体験として味わい尽くしたい人に、ぜひおすすめしたい。
一般に、読書体験とは、本を選び・読み・感想を抱くという一連のプロセスを通じて、作品世界を疑似体験することを指す。
だが、時に、それ以上の知の冒険を読者に提供してくれる小説があるものなのだ。
これ以上はネタバレになってしまう。前作『N』もギミックに満ちた本なので、未読の方はそちらもどうぞ。でも、読後感が(どっちも良いけど!)まったく異なることは申し添えておきたい。
『クロワッサン』1162号より
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