【御香宮神社/高台寺/圓徳院/北野天満宮】ありし日をうつす歴史の跡を花房観音さんとたどる vol.2
撮影・福森クニヒロ 構成&文・中條裕子
花房観音(はなぶさ・かんのん)さん
小説家。バスガイドを務めながら、小説を執筆。『京に鬼の棲む里ありて』『京都伏見 恋文の宿』など、京都を舞台にした小説多数。新刊は『怪談ルポ 死の名所を歩く』。
御香宮神社(伏見)
伏見城があった土地に唯一残るかつての大手門
こちらの神社は祭神が神功皇后で、安産の神様。もともと秀吉によって信仰されていました。そのため、伏見に城を築く際に、鬼門除けの神として城内に勧請され、その後、秀吉が伏見城で亡くなると家康によってまた元の場所に戻されました。のちに伏見城が廃されると、大手門がこの神社の表門として移築されています。大手門は桃山の豪奢な建築で、見事なもの。伏見城は秀吉の趣味が詰まった豪奢な城だったのだと思います。
城はもうありませんが、秀吉が伏見を中心としていたころの遺構が残っているのが、御香宮神社。当時の伏見城がどんなものだったのか、様子は窺い知れなくても、地元で当時の雰囲気を味わうことができる場所となっています。
高台寺(東山)
秀吉の菩提を弔う寺院で、絢爛たる桃山文化を体感
正室である北政所ねねが、秀吉の菩提を弔うために、高台寺は創建されました。なぜこの場所だったのかというと、阿弥陀ヶ峰をいつでも見られるからと伝わっています。境内でも小高い場所にある、ねねの墓所〈霊屋〉は、秀吉が祀られている豊国廟に向かって建てられているんです。南を向いて、秀吉を拝むように配されています。
この霊屋もそうですが、境内には開山堂といった絢爛たる意匠が凝らされた建物もあり、伏見城から移築された観月台や茶室も遺されている。とても豪奢。それは、秀吉の菩提を弔いたいというねねの発願に対して、徳川家康が政治的配慮をして建てられたから。ここを訪れると、家康が北政所ねねを大事に扱っていたことがわかります。
圓徳院(東山)
秀吉を偲びながら晩年までねねが過ごした寺院
ねねが晩年を過ごしたのが、高台寺の塔頭である圓徳院です。この2つのお寺さんの間の道は現在〈ねねの道〉と呼ばれており、この辺りはとてもゆかりの深い場所となっています。
私は豊臣家の力を大きくしたのは、ねねありきだったと思っています。織田信長との関係も彼女の存在が大きかった。たとえば、秀吉の浮気を怒っているねねを信長がなだめて、彼女をとても褒めている手紙が今も残されているんです。ねねを大事にしようとしていたのがわかります。彼女はこちらで76歳まで長生きして、安泰に暮らしました。
当初は高台寺建立の際に自分が住む屋敷として、伏見城化粧御殿と前庭を移築したので、その面影を伝える庭園をゆったり眺めることができます。
北野天満宮(北野)
今も境内に残る、秀吉ゆかりの井戸や御土居
学問の神様として知られている北野天満宮ですが、実は秀吉とのゆかりがいろいろとあるんです。たとえば、御本殿は豊臣秀頼が造営したもので、壮大な檜皮葺屋根の建築となっています。
そして、こちらの神社は秀吉が北野大茶湯という茶会を催した場所。当初は10日間の予定が1日で中止となりましたが、茶会で用いられた長五郎餅や上七軒町との結びつきなど、今もさまざまな逸話が伝わっている。そのときの茶会で実際に使われたという井戸も、見ることができます。
もう一つ興味深いのは、境内に残されている史跡の御土居。秀吉により築かれた土塁なのですが、戦乱で荒れた京の都を外敵や鴨川、紙屋川の氾濫から守るために築かれた、堤と堀です。実は当時、京都の街をぐるりと囲んでいたもので、この内側を洛中、外側を洛外と呼んでいた。この御土居を見ると、秀吉は京都の都市整備をした人でもあったのだ、ということがわかります。
上七軒花街のシンボル、五団子の紋章にも秀吉の逸話が
北野天満宮の東参道に広がる門前町が、上七軒。秀吉が大茶会を開いた際、当時7軒あった茶店を秀吉が休憩場所とした。そのとき出された名物のみたらし団子を秀吉が気に入ったことから、その後の街の発展につながったと伝えられている。
『クロワッサン』1161号より
「【豊国神社/豊国廟】ありし日をうつす歴史の跡を作家・花房観音さんとたどる vol.1」はこちらをご覧ください。
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