『ユーモアの鎖国 新版』石垣りん 著──時を越え確かに受け取る、私たちのすべてが書かれた本
文・古賀及子
ある本を好きだと感じたとき、私は「ここにすべてが書いてある」と思い込むくせがある。
一冊の本にこの世のすべてを書き記すことなんて、まさか無理なことだ。すべてを書いてやろうとして書く著者も、そうはいないだろう。
それでも、受け取った私は思う。ここにすべてが書いてある!
本書をひらいてすぐ、巻頭作の「待つ」にこうある。
〈私は結婚しないで年をとり、従って子もないけれど、たまに妙なことを考える時があった。私の腕の中には“生まれなかった子ども”がいるから唄をうたってあげよう。〉
読んで、しばらくまばたきができなくなるくらいびっくりした。私は子を持った。周囲には持たない友人も多い。選択して持たなかった、持ちたかったが叶わなかった、持った場合も、望んで授かることも、思いがけない妊娠を経験することもある。事情、感情、時間、そのほかさまざまのことがうねって、状況はあまりにも多様だ。だから出産の選択と実際のことは、何とも言いようが、ずっとなかった。
石垣りんはその語れなさを、後ろからすっと通り抜けるように、唄をうたってあげよう、と書く。言葉を尽くしても尽くし切れなかった私たちの母性のことが、ここに一言で、ぜんぶ書いてある。
1973年刊行、1981年に復刊し、その後1987年に文庫化されたものが、今年2025年に新版として再刊行された。途切れずバトンを渡すように装いが改まることに、新鮮に求められ続ける本だとわかる。
戦後を代表する詩人だが、いっぽうで、家族を養い、自分も暮らしていくために、14歳で銀行に入行して定年まで勤めた。本書を読んでいると、自身が特別な存在ではないと自認する様子が伝わってくる。戦時に弟に召集令状が来た際には手をついて「おめでとうございます」と言った。就職してすぐの頃は、偉くならなくてすむから「男でなくて良かった」と思った。
その時代一般のメンタリティで生き抜きながらも、違和感は違和感として感じとった。権力と常識のとりこになっているのではと時々心配したと書く。社会のようすを観察して書き続けた。
作品は生活詩と言われた。エッセイからは、そのことへの薄い抵抗と受容、そこから誇りを発生させた心境も読み取れる。暮らしの今ここを見つめることによって、ここではないどこかを次々に見出していく。美しいものを美しいと書くのではない、「抜きさしならない詩が書きたい」とは、生きる活動としての生活への決意だ。
何の楽しみもない自分の道楽だとして、使っていない部屋の電気をつけて明るくしておきたいと、無駄だと責める家族を泣き落とした。宝石よりも選んだその贅沢の、やり切れない野心のような性質自体が、もはや詩ではないか。
新版になり、校正者の牟田都子さんによる解説がついた。撚り合わさった糸になぞらえ、本作をできうる限り丁寧に見通す文章だ。この本にすべて書いてあるとの思いが、いっそう強まった。
『クロワッサン』1148号より
広告