森南海子さんの「布と糸と家族の物語」
テーブルの上に積み上げられた貴重な布の数々に目を奪われました。無舞さんと、森さんの長年の仕事と私生活を支えた斉藤紀美代さんが手伝って、蔵の中から出してきた森さんの数あるコレクションのなかでも選りすぐりの逸品ばかりです。それらの布を見つめながら森さんは「懐かしいわねえ……」と、目を細める。森さんが自分と布の関わりについて語るとき、母・しまさんの存在を抜きにして語ることはできないといいます。
森さんの母が好んで着たのは、伊予絣でした。藍染めに白い斑点がいくつもあるのが特徴で、その斑点からポツ絣と呼ばれたものです。一見単調な織物に見えますが、実は織るのに大変な技術を要します。
「この白い斑点の部分、縦糸と横糸を白く染め分けたものを織るんです。ポツの数が小さくて多いものほど難しかった。反物ひと幅35センチのなかに60ものポツがあるものもある。気の遠くなるような作業ですよ」
女たちが一針一針にこめた思いの重みに対峙する日々の始まり。
森さんはたびたび母のポツ絣を求める旅に同行しました。最初はそのよさがわからなかったが、母が着物として着たり、もんぺ型のパンツや作務衣にして身につけていた姿をよく覚えているといいます。母の思い出とともに、森さんのポツ絣への思いは深まっていきました。
「布というのは、ただそこに静かに存在しているだけのものだと思うかもしれませんが、そうではないんですよ。布は熱いもの。じっと耳を傾けると布がなにかを語りかけてくるような気がします」
そんな言葉が、森さんが集めた刺子の着物「どんざ」からも感じられます。
着古した着物の布を何枚も継ぎ合わせて作ったもので、着物全体にかぞえきれないほどの針目が入っています。
「針目が入っていることで丈夫になり、暖かくなる。その分とても重い着物ですが、このおかげで冬も暖かく仕事ができたんです」
森さんは、一針一針に作り手がこめた思いに魅了され、時に打ちのめされたと言います。
「昔の女性はみんな縫い物をしていた。部屋の小さな灯りの下で夜なべをしていたんです。ただ黙々と針を進めるその行為に、どれだけの思いがこもっていたことか。部屋の灯りの下に家族が集まって話したり食事をしたり。そういう家族の風景もいまは消えてしまいましたねえ……」
昔の人の作業着「どんざ」から、人が針目にこめた思いの重さを感じとって夢中になった森さんは、やがて千人針と出合います。
太平洋戦争時、出征兵士の無事を祈り、白のさらし木綿にひとり一針、千個の赤糸の結び玉を作ったという千人針。その針目からはやり場のない怒りや絶望に似た深い悲しみ、それでも大切な人の無事を祈らずにはいられない葛藤など、女性たちのもつおよそすべての感情が感じられました。
森さんは千人針に夢中になり、千人針を求めて全国を行脚しました。
針をもつ者のひとりとして、使命感を感じた千人針の蒐集。
そのなかで、特に森さんの心を捉えて離さない一枚がありました。
「千人針の生地は普通、さらしを縦にふたつに切断して作ります。ところがそれは違っていました。斜め遣い、つまりバイアスになっていたんです。千人針は腹巻きのように兵士が身につけるもの。バイアスになっていれば、からだの動きに合わせて布が伸縮するので痛くないし、からだが楽なんです。何度も出征を繰り返した夫のために妻が作った千人針でしたが、夫への深いいたわりを感じました。非常に感銘を受けたし衝撃でした」
こうして集めた千人針を森さんは1994年に沖縄・読谷村の資料館にすべて寄付しました。日本で唯一の地上戦の場となった沖縄、そして、本土とは違う文化をもつため千人針の習慣をもたなかった沖縄。そこに、この戦争の悲しい記録を置くべきだと森さんは思ったのだと言います。
森さんと沖縄との縁も、もとはと言えば森さんの母が作ってくれたものです。
「母は沖縄の布が大好きで、返還前から布探しに行っていました。琉球絣、芭蕉布、読谷山花織、久米島紬など、どれもいまでは作り手が少なくなり非常に高価なものです」
最初は母につきあってお供としてついて行っただけだった森さんでしたが、やがて沖縄の魅力に取りつかれる。気候風土、食べ物、人……。すべてが心地よく、新鮮で先進的とまで思えました。
特に、日本最西端の島、与那国に行ったときのことは忘れられないといいます。
「行くのが大変だったわねえ。なにもなくて、文明文化のない暮らしという感じだった。でも滞在してすぐにそれになじんでしまい、ここでずっと暮らしたいと思った。もともと人間はこういうところで暮らすのが自然だと思えたし、与那国の布もこういう風土でなければ作れないものだと思いました。去りがたかったのを覚えています」
ひとつのことに夢中になるとそれをつきつめないと満足できない、そのことで頭がいっぱいになってしまう。そんな森さんのエピソードはたくさんあります。リフォームの店とともに食堂を経営していたのもそのひとつです。
もともと食にも関心が深く、大好きな天ぷらを極めたいとリスボンまで行ってそのルーツを確かめ修業に生かしたという話もあります。何かに夢中になり、突き動かされるように行動する自らの性格を、「好きでやってるわけじゃない。突然燃えるのよ。どうしてあんな状態になるのか自分でもわからない」と、少し照れくさそうに笑います。
90年代、森さんは高齢者の衣服に火がつき命を落とす事故が続いたのをきっかけに、燃えにくい繊維の開発に乗り出したことがあります。
「あの時は気分が高まっていましたねえ。いろいろな会社にかけあって開発の協力をとりつけ、開発したものを(実演のため)ガスバーナー持参で売り込みに全国行脚したりしました」と、横から斉藤さんもなつかしそうに語ります。
「私が燃えるたびに、まわりに迷惑かけていたんですよ、お役人とケンカしたり大損したりして。本当に申し訳ないわ(笑)。でも、難燃繊維はその後も進化し続けて高齢者や危険な職業の人のために役に立っています。のちに花となれば、いいんです」
自分が気に入った布を求めて全国へ飛び、お金を惜しまず集めた母。母のお供をしながら見る目を養い、自分の好きなテーマを追い続ける森さん。そして娘の無舞さんにも、その性分はしっかり受け継がれていました。
もともと、ギリシャが大好きでヨーロッパのハーブ料理を学んでいたのですがが、2004年、森さんの取材旅行のカメラマンとして沖縄に同行した時に転機が訪れました。沖縄の薬草を使った民間療法、沖縄の食材、料理に出合って魅了されたのです。
「まさに衝撃でした。『すごい!!これは外国行ってる場合じゃない、日本にこんなすごいものがあったんだ』と思いました」と、無舞さん。そこからが、さすがです。
「沖縄について調べまくり、通いました。料理の上手な沖縄のおばあの家に泊まり込んで料理を教えてもらったり。幼かった娘を連れて行って一緒に塩づくりも経験しました」
母子三代にわたって魅了された、沖縄の風土と布、そして食文化。
「この人も凝り性だからねえ」と、少し誇らしげに微笑む森さん。
思えば、布好きの母のおかげで沖縄の魅力に気づいた森さんですが、無舞さんも同じ道をたどっています。とは言っても、非常に個性の強い母子三代。そのまま同じテーマを追うのではなく、結果そうなったという感じでそれぞれ自分独自の道を歩んでいるところがすごい。
森さんの母、しまさんは96歳で亡くなりました。その後、森さんは母が着ていた着物をほどいて洋服に仕立て直し、縁のあった人への形見分けにしました。
「若い頃は母に反抗ばかりしていましたけどね。いま思うと、私はまだまだ小娘だったんですね。反抗しながらも母の子分だった。いえ、一生子分だったのかもしれないわねえ」
布というのはこうも鮮やかに、深く、ひとりの人間の姿や思い出をいまもいきいきと伝えてくれるものなのです。買って古くなったら捨てる。そんな布との生活が少し虚しく思えます。それほど、森さんが布と対峙することで紡いできた物語は、豊かなのです。
インタビューを終えて、見せてもらった布を撮影していた時のこと。
「心をこめてきれいに撮ってもらって布が喜んでいるわ」と、言いながら少し離れた椅子に腰かけ、それをじっと見ていた森さんがしばしの沈黙のあと静かにこう呟きました。
「怖いわあ……」
その意味が知りたくて続きを待ちました。
「怖いもんですねえ。人が布を作るということは。作った人の情念が籠っている、と言うのかしら。だから布は生き物なんやねえ……」
森さんの真剣な表情の奥深くに、静かに燃えているものを見た気がしました。
◎森南海子さん 服飾デザイナー/古着の手直し、リフォームという仕事と古い仕事着と布の蒐集に力を注いできた。著書に『布への祈り』『独りずつの家族』ほか。
クロワッサン最新号(No.907)『人生の先輩に聞く、真直生きぬく知恵』(2015年8月25日号)より