【小池昌代さんインタビュー】子どもが見つめていた世界の余韻。『幼年 水の町』
子どもが見つめていた世界の余韻。
撮影・中島慶子
詩人と同じような言葉で説明することはできないけれど、誰の心にも同じように美しかったりさびしかったりした幼年時代の記憶が埋もれているはずだ。普段は全く忘れてしまっているとしても――。本書は“下町”深川で生まれ育った小池昌代さんの幼いころの思い出をつづったもの。読み進めるうち、子ども時代の情景がいくつも唐突に思い出された。そう伝えると、
「よかった。引き出しみたいになりたかったんです。誰かの」
とうれしそうに応じてくれた。書くことを生業にしてきた人でも、遠い記憶を振り返りながら書く作業には特別な感慨があったという。
「記憶は私の外側にある、私のものであって私のものではない“何か”になり、それに導かれるようについて行くと、すごく変なところに行っちゃう。記憶の意味が明かされて、段々変容していくんですね。創作してしまっていると言えるのかもしれないけれど、全くの創作でもない……そんな微妙な揺らめきの中で文章がたちあがってくるのがまたおもしろいんです」
ところで、子どもは思いのほか冷徹な傍観者だ。先生のずるさ、友だちの嫌なところ、大人たちのひそひそ話……小さかった私たちもずいぶん複雑なことがわかっていたものだ、と思い至るだろう。一方で水面のきらめきに心奪われる柔らかな感受性も備えている。
「詩というものは一応1行目から始まるんだけど、実は始まる前のほうがずっと大事なんです。なんでもそうなんじゃないでしょうか。植物なら、まだ発芽していない、土の中で眠っている時間。子どもでいえば、何も表現しないで、そして今おきていることがどんな意味を持つのかもわからず、ただ見て味わって聞いて生きている、そんな純粋な状態。それがどんなに豊かな時間であることかと思います」
“私が本当に詩人だったのはまだ何も書いていなかった子どもの頃”という趣旨の記述が本書にある。
「私の幼年に限らず、普遍的な意味で幼年というものには豊かさというか、私がずっと追いかけてきた“詩”がざくざく眠っていると思って。私が子どものころは暗くなるのも気づかずに遊び呆けていましたけれど、そんな時間が今の私をすべて支えている気がします。『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)に“遊びをせんとや生れけむ”とありますが、本当、それが幼年時代の本質じゃないかなあ。遊んだ時に命が燃焼するわけで、それがすべての仕事の原動力。遊び尽くしたあの時間がなければ、生き延びることができなかったのでは。幼年期に戻っていくように生きていきたいですね」
白水社 2,200円
『クロワッサン』967号より