浮世絵を通して縁起物の魅力を知る——対談:本間美加子さん・日野原健司さん
撮影・青木和義 文・嶌 陽子 構成・中條裕子
招き猫や酉の市の熊手など、私たちの暮らしに根付いている縁起物は、江戸時代から人々の身近にあったもの。
今回、東京・世田谷区にある本屋さん『ふくもの堂』でトークをするのは「ふくもの隊」隊員として全国の縁起物を取材している文筆家の本間美加子さんと、浮世絵専門の美術館、太田記念美術館の主席学芸員、日野原健司さん。
浮世絵の中に見られる縁起物について語り合った。
日野原健司さん(以下、日野原) 本間さんはどんな経緯で縁起物に興味を持ったんですか?
本間美加子さん(以下、本間) もともと神社やお寺が好きというのもあったんですが、日本の年中行事や暦についての本を書いた時、これまで自分が何げなく行ってきた年中行事に深い意味があると知って面白くなったんです。そこから縁起物にも関心が向くようになりました。
日野原 縁起物は仏像などとはまた違って、もっと我々の身近なものとして存在してきたような気がします。
本間 生活の中から自然と生まれたものも多いし、そうしたもの特有の愛らしさもありますよね。
調べてみると、江戸時代から続いている縁起物もけっこうあって、考え方や発想はその頃も今もあまり変わってないんだなと感じます。富士塚の山開きの時に授与品として配られる「麦わら蛇」も昔からあったものの一つ。
日野原 浮世絵にも描かれていますよ。これは歌川国安の美人画なんですが(下記画像を参照)、右上に麦わら蛇が、笹の葉に巻きついている姿で描かれています。
当時は富士山信仰が盛んで、江戸の街を含め、各地に富士山を模した小さな丘のようなものが作られていた。今も都内に数十カ所残っていますが。山開きの際、そうした富士塚にお参りに来た人々に麦わら蛇が配られたんですね。
本間 今の麦わら蛇とはかなり形が違います。木の枝に麦わらを巻きつけているのは変わりませんが、今はデフォルメされたものが多いようです。当時のものは本当に蛇らしい姿ですね。
日野原 長年作っていくうちに形もだんだん変わっていったんでしょう。もうひとつ、縁起物といえば招き猫。今の人には麦わら蛇よりは馴染みがあると思います。
これは嘉永5年(1852年)に描かれた絵(下記画像を参照)。招き猫を描いた一番古い絵ではないかといわれています。
招き猫の起源については諸説ありますが、これはその一つ、台東区の今戸で作られた今戸焼の人形です。
本間 丸〆猫と呼ばれているんですよね。この絵でも、店の暖簾に「〆」と書いてあるのがちらっと見えます。この招き猫、右手を挙げてますけど、「右手はお金を招き、左手は人を招く」といわれるようになったのもいつ頃からなんでしょう。
日野原 どこかのタイミングで自然といわれ始めたんでしょうね。招き猫自体も、ルーツを考えると神社仏閣の由緒正しいものではなく、誰かが思いついて売り始めたところ、大流行して今でも作られている。そう考えると面白いですよね。
江戸時代の酉の市にも今と変わらぬ縁起物が
日野原 次の絵は12カ月のさまざまな年中行事を描いたシリーズの1枚で、霜月、旧暦の11月の酉の市の絵です。
今でも浅草の鷲神社などは、毎年大きな熊手が飾られて賑わっていますが、江戸時代もとても賑やかで、特に商売をしている人々は商売繁盛を願って熊手を買っていました。
右の女性は丁稚の小僧らしき少年を連れて、熊手を買って帰路につくところなのでしょう。
本間 左の女性は八頭(やつがしら、里芋の一種)を持っていますね。「頭の芋」とも呼ばれ、一つの親芋に子芋が多くつくことから「人の頭に立つ」縁起物として、寺社の境内で売られていたようです。
あと、真ん中の女性が持っているのはおそらく黄金餅ですね。これも金運上昇を願う縁起菓子。
日野原 参詣をした人たちが縁起物を持って帰るという、当時の暮らしのワンシーンだったんだろうなと思います。美人画ということで、いろいろ演出はされていますが。
本間 熊手に米俵や稲穂、小判などがついているのも見えます。今の熊手は装飾品がさらに増えていて、きらびやかですね。皆が欲張りになって、願い事の数がどんどん増えてきたのかもしれません(笑)。
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