内海桂子さんの言葉①「くよくよ悩む暇があったら、まず動いてみなさいよ」
撮影・黒澤義教 文・嶌 陽子
「最近の芸人は、芸っていっても、しゃべるだけの人がほとんどだね。それに、今の人の漫才を見てると、皆、台本どおりにしゃべるだけ。決まっていることに毎回、自分なりの枝葉をつけるのが本当の芸なのよ」と内海桂子師匠。
「枝葉」とは、自分が生きてきた人生、そしてその中で磨かれてきた感性のこと。そうだとすれば、桂子師匠の枝葉は、90余年の歳月をかけて、豊かに生い茂ってきたと言えるだろう。今なお暮らす浅草で育ち、家計を助けるために、小学校を3年で「中退」して奉公へ。家に戻った後も、働きながら三味線や踊りを学んだ。初舞台を踏んだのは、16歳の時だ。
「その前から、浅草の寄席で楽屋番の手伝いなんかをしていたから、舞台はずっと袖から見てたの。そのうち、世話をしてくれていた漫才師の相方であるおかみさんが、妊娠して舞台に上がれなくなって、私が助っ人を頼まれたんです。前からそのおかみさんを見ていて、どうして『ああ、そうそう、はいはい』しか言わないんだろう、あたしだったらもっと盛り上げるのにと思ってたから、わけはなかった。初舞台のときも、緊張はしませんでしたよ」
持ち前の度胸と機転の良さは、漫才師としてうってつけだった。ピンチヒッターのつもりで上がった舞台に、その後80年近く立ち続けるとは、自身も予想していなかっただろう。
戦中は、満州へ慰問に行き、東京大空襲の際には戦火の中を逃げた。戦後は漫才の仕事もなく、家族を養うために、吉原の遊郭で団子を売ったり、田原町のキャバレーで女給をしたこともある。その後、14歳年下の内海好江とコンビを結成。本格的な女性漫才師の先駆者として大人気を博し、数々の賞を受賞したのは、周知のところだ。
「いろんな体験をしましたよ。遊郭の女性たちともつきあったし、時の首相のお座敷に呼ばれて、漫才を披露したこともある。そうやって、いろんな人とつきあう中で、感性が磨かれて、芸の肥やしになっていったの。今の人たちは、遊び方を知らないでしょう。だから世間を知らなくて、変に硬くなっちゃってるんだと思うね」
戦後の漫才界を引っ張った同志たちは、48年間コンビを組んだ好江をはじめ、ほとんどが鬼籍に入った。「あたしが目をつぶったら、誰も教える人がいなくなっちゃう」という思いから、芸とは何か、自分らしい言葉で、若い芸人たちに日々伝えている。
「目でものを言うんだよ」
「体で言葉の絵を描きなさい」
「地球はまわってるんだよ。ずっと同じことばかりしていないで、地球に合わせていかないとだめ」
言葉遣いについても厳しい。
「『ヤバい』なんて言葉は、昔はテキ屋が警察から逃げるときの符丁として使ったのよ。そういう品のない言葉を普通に使っているのは、田舎っぺの証拠。あたしは絶対言いませんよ。あとね、今の若い子は、ただ笑わせればいいと思ってるから、大事なお客様に平気で『お前』『バカ』なんて言う。ああいうのは芸じゃないね」
寄席で若手と一緒に「銘鳥銘木」をかけるのも、今や自分しか知らないことを後世に残したいという思いから。
「ただし、昔の漫才を、今の時代にそのままやっても仕方ない。若い子たちと一緒にやることで、私も『ああ、今はこんなものが流行ってるんだ』と知ることができるのよ」
後進に教えるだけではない。自身も今なお、枝葉を広げ続けている。
『クロワッサン』931号
●内海桂子 漫才師/1922年生まれ。1950年、内海好江と漫才コンビ、内海桂子・好江を結成。1982年に漫才師として初の芸術選奨文部大臣賞を受賞。現在、漫才協会名誉会長。
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