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トキワ荘唯一の女性メンバー・水野英子さん
「運命を変えた、手塚治虫との出会い」

あの「トキワ荘」の唯一の女性メンバーとして知られる漫画家・水野英子さん。つねに新しいものに挑戦したその漫画家人生について聞いた。

手塚治虫に見出され、 15 歳で漫画家デビュー。

 山口県下関で生まれ育ち、早くに両親を亡くし祖母の手によって育てられた水野英子さん。本が大好きで小学校3年生ですでに大人の読むような文学を読んでいたという。

 そんなある日、ある漫画と出合う。手塚治虫の『漫画大学』という作品だ。

「5〜6本の短編漫画が載っていましたが、SFあり、西部劇ありでそのどれもがワクワクするほど面白い。また、人間描写の深さにも衝撃を受けました。頭をガツーンと殴られたようなショックで『自分の求めていたものはこれなんだ!』と確信し、漫画家になろうと決心しました」

 もともと絵を描くのは得意だったが、その日から手塚作品をお手本に独学で漫画を描き始めた。

「ありがたいことに、手塚先生は作品の中で漫画の描き方を伝授してくれていたんです。手塚先生がいなかったら漫画家・水野英子は存在しなかったでしょう」

 鉛筆で描き始めた絵はどんどん上達し、中学に入学した頃からペン画を漫画誌に投稿し始めた。でもいつも入賞一歩手前の佳作どまりだった。そんな頃、思いがけない一通の手紙が届く。

 手紙の主は『少女クラブ』編集者の丸山昭さん。この手紙が水野さんの人生を大きく変える。尊敬する手塚治虫の推薦により、15歳にして漫画家デビューすることになったのだ。

「後から聞いたことですが、手塚先生の担当だった丸山さんが先生の仕事場で私が以前に投稿した原稿を見つけたそうです。『これはなんですか?』と聞く丸山さんに手塚先生は『この子は有望だから、育ててみたらどうか』と言ってくださったとか。本当にうれしかったです」

 とはいってもまだ15歳。いきなり上京するわけにもいかず、下関で作品を描き東京へ届ける、そんな生活が2年ほど続いた。そして18歳になった時、ついに上京することになった。

『トキワ荘日記』石森章太郎(当時)、赤塚不 二夫、藤子不二雄らも住ん でいたトキワ荘での日々を、 漫画とエッセイで綴った日 本の漫画史において貴重な 一冊。自費出版。

 手塚治虫が住んでいたことがきっかけで若手の漫画家が住み始めた、南長崎にあるアパート「トキワ荘」。上京した足でそこを初めて訪ねた日の水野さんのエピソードは、もはや朝ドラの一場面か伝説のようだ。

「そのころトキワ荘に住んでいた赤塚不二夫さんと石森章太郎(のちの石ノ森章太郎)さんと私の3人でU・マイアの名で合作を連載することになったんです。当時は漫画誌は新鮮な描き手を求めていた。そこで丸山さんが、石森さん、赤塚さん、私の3人で謎の漫画家として連載することを思いついたんです。石森さんも赤塚さんも当時は少女漫画を描いていましたが、やはり女の子を描くのは少し苦手だったようです。そこに私が加わったら、新しいものができそうだと期待されたのです。雑誌でいつも作品を読んでいたお二人と、いきなり対等な立場で合作を執筆するなんて、それはもう天にも昇る心地でしたよ」と語る水野さん。

『クロワッサン』931号より

●水野英子 漫画家/1939年生まれ。雑誌『少女クラブ』で15歳の時にデビュー。代表作は「星のたてごと」「白いトロイカ」「ファイヤー!」等。2 010年、長年の功績が認められ、第39回日本漫画家協会賞「文部科学大臣賞」を受賞。

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