梯さんの脳裏にオーバーラップしたのは昨年末、梯さんが12年もの苦闘の果てに上梓した『狂うひと』で取り上げた、『死の棘』の著者・島尾敏雄の妻、ミホさんのことだった。『死の棘』は夫の不倫をきっかけに妻が狂乱し、死の瀬戸際まで追い詰め合った夫婦の壮絶な愛を描いた私小説の名作。だが、その後明らかになったさまざまな新事実と、粘り強い取材をもとに、この夫婦の〝神話〟を覆したノンフィクションの力作が『狂うひと』だ。
「『死の棘』のすごいところは、妻のミホさんがどんな人なのか、島尾敏雄が全然わかっていないところなんです。わからないものをわからないままに延延と書いて、妻の内面には入り込まない。だからこそ不気味かつ美しく、心惹かれる作品になったんです。『おさん』もそうですけど、ヒロインの心理描写をしない小説って一般的に言って読むのが困難ですよね。読み手は安易に感動できないし、感情移入もできないし」