「今日はスープのほかに『心臓焼き』をお見せするわね。二度と教えないから、よく見てね」。そう言いながら10個もの卵を一気にかき混ぜる辰巳芳子さん。ある日のスープ教室でのことだ。
「この鍋でなければできないの」
鍋とは、クロワッサン創刊から3年後、誌面で心臓焼きの作り方をじっくり披露してくれた、その鍋でもある。
「80年以上、私たちの家族のいのちを守ってきてくれた鍋」
戦時中、母で料理家の辰巳浜子さんは、防空壕にも抱えていったという。戦地にいる夫に送るため、かつお節を醤油で炒りつけたり、配給の小麦を挽いてパン・ド・カンパーニュを焼いたり、牛肉の塊をコンビーフにもして、いのちを守った。
「『お母様の心臓焼き』と呼んだのは、一つも無駄にできない卵を10個も使うという勇気を讃えてのこと。だからといって、一度にこの形ができたわけではないのよ。最初は、袋を縫って、寄せ卵の状態にして入れ、鍋中で形づくっていた。袋を持つのは私の役目。『よっちゃん』と呼ばれると、かつお節をかくか、ごまをするか、袋を持つか(笑)。こうして、伝え、伝わっていくんです」
辰巳さん自身も、この鍋で改良したレシピは数えきれない。伝承されたものは熟成され、言語化、体系化、再構築され、今なおアップデートしている。
「伝わるとは、そういうことなの」
40分間立ち続け、心臓焼きを焼き上げた。つやつやと飴色に輝く楕円を見て、生徒たちからため息がもれた。