行列の絶えないベーカリー『ブレッド&サーカス』。
その人気の理由は? vol.2
温泉郷・湯河原の一角に、全国から注目を集める名店『ブレッド&サーカス』があります。何度でも食べたくなる天然酵母パン。それが作られる背景には、個性的な店主の研究と、20年の経験の結晶がありました。
寺本夫妻が現在の場所に店を開いたのは、1996年のこと。当初は康子さんが主体で運営していた店に五郎さんが参加したのはその2年後、五郎さんが変動性血圧症を患い体調を崩したことがきっかけだった。自身、思いもかけない成り行きであったという。
「60のときに倒れて、7、8回手術をしたのかな。2年間静養して、何とか動けるようになったら、医者が『健康のためにも何かしろ』と言う。じゃあ、パン屋でもやるかと。別に、やる理由もなかったんやけどね」
もともとは建築家で、東京で建築設計の会社を経営していた五郎さん。いくつもの大きなプロジェクトを手がけ、景気のいい時代には大いに飲み、打ち、遊んだという。生まれ故郷の九州と長く過ごした関西のイントネーションが混ざった独特の口調で語られる半生は、一聴しただけでは計り知れないほど波瀾万丈なものであったようだ。しかし、事務所の棚には、専門であった建築に加えて、パンの製法にまつわる洋書がずらりと並んでいる。これらを見るにつけても、勉強熱心で知識欲、行動力ともに旺盛な様子が窺える。
「店に入る前、日本のパン屋に見学にも行ったけど、こんな採算の取れないことではだめだとすぐに引き揚げた。アメリカのパンは子ども騙しやけど、ユダヤに伝わるパンだけは、ちょっといいと思ったんだな」
そこで、ボストンからユダヤのパンに詳しい職人を招聘し、3カ月間みっちりと講習を受けることに。五郎さんは手を動かし、独自のパンのあり方を模索し始めた。
五郎さんの口癖のようなこのフレーズは、ともすれば聞いた人を怯ませるかもしれない。しかし、その言葉の意味が単なる売り上げ至上主義でないことは、店頭に並んだパンの顔ぶれを見ればわかる。そして、それを求める人の列が途切れないことからも。五郎さんは、笑って続ける。うちが作るパンがおいしいのは当たり前なんだ、と。
本当にいいパンって? それは「求められる」パン。
「人によっては甘くてソフトなのがいいって言いますけど、そんなの、いくらでもありますよね。本当にいいパンって何なんだろうと突き詰めても、答えは出ない。そうすると、売れてはじめてナンボだということですよ」
売れること。すなわちそれは、客から求められ、支持されていることの何よりの証し。
「そう。だから僕ら、店で会話していて、『これ、おいしいぞ』なんて言ったことない。『売れるぞ』っていう言葉以外、ないですよね。人に何と言われたからといって、有頂天になったり、格好つけたりするんじゃなく、現実に帳面に残る数字しか信用するなと。売れるか売れないか、それだけのこと。それが商売というもんですよ」
「お客の好みには合わせない。堅いパンが嫌いな人はずっと嫌いやし、好きになる人はいつか必ず好きになってくれる。だから、こちらから先に折れる必要はないですね。ライ麦パンは、薄く切って、バターをたくさん塗って、冷蔵庫の余りもんのおかずを全部のっけて、挟んで食べなさいって教えてあげるんです。中身がぎっしり詰まったパンは、いつもの倍くらい噛んで食べてくださいと。そうすると、おいしいんですよ。いいもん作ってたら、黙ってても売れる。イコール、売り上げに跳ね返ってきますでしょ。お客さんはよくわかってますよ」
真剣に作ってきた「歴史」がものをいう。
「バイキングのパン」は、ドライフルーツやナッツ、スパイスがそれぞれ数種類練りこまれ、味と食感のオーケストラさながらの深みを楽しめる。
「材料は多いし、ほんま儲からんですよ」と苦笑しつつ、手塩にかけて生み出されたパンは、それぞれにユニークで、何風という枠にはまらない自由さに溢れている。工夫の過程で偶然レシピが生まれたという「9種穀物パン」は、大地の香りのする力強い食味が特徴。とくに思い入れのある一品らしい。
「僕、ご飯は白米しか食べんのに、仕事が終わった夜、これを1枚持って帰って食べたら、今でも涙が出るんよね。世の中にこんなおいしいパンがあるんかと。真剣になったら作れる。いや、作らないけません」
おいしく「売れる」パンを作るためには、作る側が感覚を研ぎ澄ましていること。そうして、長く店を続けていくことに尽きるという。
「添加物の味に自分の舌が慣れてしまったら、おいしいかどうかなんてわかりっこない。それに、お客さんをつかまえるには、店の歴史も大事なんですよ。ようやっと20 年。最初に習ったパンを忠実に作ることと、売れるパンを作るところまではきたけど、どこまで深みにはまっていくかわからんね。まだまだこれからです。女房には『90までやってくれ』と言われてるし」
春には、店のファンだけでなく、パン業界の人々も注目する初のレシピ本を刊行する予定。
「秘密だなんて、ケツの穴の小っさいことは言いません。配合がわかったって、作れないヤツには作れないんやから。うちで修業した子らにも、そう言ってるんです。仲良しグループじゃないんだ、これからは商売敵なんだから、土足で踏んでいくくらいのつもりでいろと。どんどん利用したらいいんです」とは、いかにも五郎さんらしい口ぶり。この本の発売に合わせて売り出す新しいパンもまた、構想中であるという。
「今のサワーブレッドを大型にしたような感じで、1週間か10日かけて、少しずつ切って食べていく感じかな。その間、ずっと楽しめる」
大きくて、豊かな。まだ見ぬそのパンの香りと味を想像するだけで、うっとりしてしまう。
『クロワッサン』2016年2月25日号より
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