悲しいという状態は、なにか対象があって、それを喪失した結果。さびしいは、もっと根本的に生の自分の存在がむき出しになっていて、それを受け入れるしかないことがさびしいんだと思います。侘び寂びの世界みたい? 一方、サガンの『悲しみよこんにちは』(英訳すると〈Hello sadness〉)では〈悲しみ〉じゃないとダメ。……まあ、考えだすと翻訳は進まないので、普段は直感的に即訳ですけど」
翻訳を担当した管啓次郎さんの文章は、言葉のリズムなど、通常の翻訳文体とはひと味違う魅力がある。しばしば「エイミー・ベンダー作品は彼の訳文あってこそ」と評されるほど。
「僕は、2010年から自作の詩を発表するようになりましたけれど、自分の作品を書く時、外国語を思い浮かべることが多くて。常に、英語やフランス語の単語が頭で反響している。その状態に近いものが、翻訳の時にも出てきているのかもしれませんね。混乱した言語で頭が一種の沸騰状態になってシュワシュワしてる感じでしょうか」